満たされている日常
なんの不満もない。
いろいろと物事が周りで起こっているようだが、全ての悩みごとは自我の有無によって生まれる執着が災いしているものであって、それらがあたかも生まれつき必ずどうしようもないという思い込みを持って生きているからこそ、人は苦しさから逃れ得ない。
悲愴なことは、悲劇のドラマをつくり上げていく過程である。
苦しみはその起こったものごと事態に原因があるのではなく、そのものごとが起こる理由があるという基本的なことに気づくことがなく、嘆き苦しみつつも、その原因となる行為をやめることができない。
そのことが、すべての苦しみの根本にあることがわからないまま、ひたすらにその悲しみと苦しみの表層でたまたま出会った、実は原因ではないのに原因に思えてしまったなにかに心をずっと囚われながら、本当のことには目を向けることもなく、違うものごとに対して恨みをもって生きていく。
悲劇そのものは、起こった事実のことではなく、そう捉える認識の癖に囚われ続ける生であり、それを経て執着を持ちながら死んでいくということ。
基本的にはそんなことばかり考えているだけなのだが、それを一緒に話せる尊敬する友人たちがいるということがまずなによりも恵まれている。そしてそれは最初は勇気を持って、いまは躊躇いもなくそうした話をしていられる自分になったことで、周囲の存在がそういう人ばかりになることを結果的に選んだということだ。
さて、そうすると囚われの癖に気づくことほど重要なことはないということには察しがつくので、自分がこだわっていることを内省していくわけだが、そのすべては誰のものでもなく、もちろん自分のものでないことは当然だが、その人のものでも、あの人のものでもなく、どれもこれもが本当は仮の姿であると思えるし、一時的な借り物であることもわかってくる。
そうしたとき、純粋にムキになって起こるということの、単純さと純粋さにある意味では感動しつつ、すごく冷静に引いてしまうようなこともある。
ただし、一方では「配役されたドラマを真剣に演じない俳優に回ってくる役などない」とは思っていて、やっぱりいただいた出演依頼には真剣な演技、それはもう人生をかけて、死んでしまうんじゃないかというくらいの演技が求められるような気もする。
それはもう自我で行うものとはちょっと一線を画しているもののイメージ。
自分がいまこうして生きていることも、また偶然にもいくらかの人に役立ち生きていくという配役をもらっていることも全てが自分の努力と才能にあるということを言えるとしたら、それはもう傲慢そのものであるし、自我に縛られた存在そのものではないかと思う。
それでは苦しみから離れられないのも無理はない。
満たされているとき、与えられた配役に、偶然を装って訪れるなにかに対して心を開き、素直な心で向き合おうという心構えでいられる。
常にそうありたいから、身体も思考も心も整えることを最優先するのだ。