「遊んでる場合か」「そうだよ」

エアロバイクですが、まじで連続で続いておりまして、今日時点で1567km走っておりまして、本日で22日目となりました。およそ72kmを毎日チャリンコ漕いでおりますが、このペースは流石に異常です。毎日72kmって、ちょっとまあまあ遠い距離を通学する学生並の日々ですよ。いやむしろ、そんなに漕ぐことなんかせずに電車に乗っちゃいますよ、学生さんは。

そんなわけで、学生よりもよっぽどチャリを漕ぎつつ、面白げなミーティングにも花が咲きつつ、新たなことも急にポコポコと降ってきたり、飛んできたりと、賑やかな毎日であります。新しいアイディアなんか無限に出続けておりまして、やりたいことなんかいっぱいあります。

実現するのに時間とお金と人手があればあっという間なのかもしれませんが、あっという間に実現したいからアイディアを生み出しているのではなく、できなさそうでできちゃうギリギリのラインで面白いことをしている時間が最高の楽しみだからこそ人生でそれをやっているだけ。だから、すぐにうまくいくとかいかないとかは大事じゃなくて、徐々にみんなで「なんかいい感じになってきたね、どうする?どうしよう?」ってやってるのが結局は楽しいって、そういうことしながら途中で道半ばで死ぬくらいがいいのだ。


どう考えても、食べるのにも、寒さ暑さをしのいで暮らすのにも、寝るのにも、風呂に入るのにも十分すぎる豊かさがある。足りないものがあれば埋めるのは簡単だけど、足りちゃっていると誰かから「足りないんじゃない?」って言われないと頑張れないなんて人もいると思うんだな。

でも足りている。十分に満たされてしまった世界の中において、それぞれが機能を分担した役割を果たし、部品のように動いて生きていることが便利さを支えている。けれども、そこに価値を感じる人もいれば、部品じゃねえかよ、交換可能じゃねえかよ、って悲しくなっちゃう人も出てきてしまって、それが悩みになる。そしてそれはこれから多くの人が体験して、その苦しみは物質的な苦しみよりもよっぽど大きいことを知るでしょう。


虚無感。退屈さ。自分の存在感の薄さ。価値のなさ。


そういうものが自分自身に何かに成れよ、何かを為せよ、と駆り立ててくるのにも関わらず答えが出せなくて悶々とする人たちが後から後から出てくるでしょう。そういうものが出てきているとき、まさにそれこそが一緒に話をしたかった話題だよ、というふうに僕は思うわけです。

ちょっとだけ「この先これが続いたら、どうなるんだろう?」って思ったら、すぐにぶつかってしまう。「で、これってなんの意味があるの?」っていう、ものすごーくシンプルな問いにぜんぜん答えられない自分がいるってこと。

そこでしょ。それを探すために生きてるんでしょう。お金でも、地位でも、役割でもなく、そのどうしようもない感情の根源と行き着くべき場所を探せるのかどうかを悩むでしょう。それが話をするってことじゃないかと。

まあずっと思ってましたね、9歳くらいから。そんなことをみんなと話せる時期がどんどん近づいているし、そんな話をしても大丈夫な人たちがどんどん周りに増えていて、僕はやっと会話ができるようになった気がしますよ。


仕事は大切。ただ、それはなぜしたいのかが明確だったほうが楽しいから、常に自分の心に問い続けなくちゃいけない。


「おもろい、それ?」


そうしたときに、遊んでいることは重要です。遊んで、やめて、遊んで、やめて、遊んで、やめなくちゃいけない。そうしないと自分の好きな遊びにすら気づかなくなっちゃうかもしれない。心が麻痺ってくる。

最近はエアロバイクがまじで楽しい。そしてスマホゲームも続けてまして、エアロバイク乗りつつ、ブログ書きつつ、チャットしつつ、スマホゲームしたりする。意味不明な同時進行を、意味不明な充足感とともに楽しんでて、なんでこんな意味不明な効率性を求めるのかと思いましたが、ああ結局はこれがいま、けっこう楽しいんだとシンプルに思えています。


だから、遊んでる場合だと思うんだな。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。