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ブラック・ジャックの新作を読んで思ったこと

私の愛読書であるブラック・ジャックは今年で連載開始50周年を迎えています。
先日も東京の六本木ヒルズでブラック・ジャック展があり、その歴史と作品の奥深さが展示されていました。
50以上の作品の抜粋の提示、原画の展示があり、あらためて作品の素晴らしさに浸れた展覧会でした。

この展示会に間に合うように動いていた企画がありました。
それがAIが書く新作、です。
残念ながら展覧会の会期には間に合わず(次回は来年春に松本市美術館でやるようですが)、このタイミングでの発表となりました。おそらくですが、相当に大変な制作だったのだろうと思います。

生成AIがブラック・ジャックを書いたらどうなるのか、をワクワク楽しみにしてた私でしたので、発表になったと聞いてやっと読めるのだと嬉しく思いました。そして、発売日にコンビニで数十年ぶりに少年チャンピオンを手に手に取り、立ち読みせずに買って帰りました。

2023年11月22日発売の少年チャンピオンの表紙です

自宅でじっくりと噛み締めるように読みました。
しかし…
絵もセリフもBJなんだけれど、なんか違う…

これをAIに書かせたのだとしたらかなりの時間がかかっているであろうことは読んだときに感じる完成度の高さからよくわかります。
よく書けてるし、ストーリーも面白いところはある。最新の医療に関する知見もちゃんと入ってる…
だけど、何かが足りない…

どうしてそう思ってしまうのか、そう思えてしまうポイントはどこからなのだろうなぁ、と自分でも不思議に思ってしまっています。
本誌に書かれてた舞台裏の記事も含め、違和感の正体を考えてみます。
ネタバレも入ってしまっているかもしれませんので、読まれていない方はここから先はご注意いただけるとありがたいです。

ブラック・ジャックとの出会い

思い返せば、私はブラック・ジャックはその連載開始(1973年11月19日号)の時から読んでいます。
マセガキだった当時小学生の私は永井豪の漫画が読みたくて、当時学習塾の通う合間に本屋に寄って少年誌を立ち読みしていました。その頃少年チャンピオンではキューティー・ハニーを連載していて(1973年9月連載開始だったらしいです)、それ目当てで読んでいたところに、手塚治虫氏の新連載として掲載が始まりました。
第一作「医者はどこだ」は巻頭カラーでした。

そこから惹き込まれるようになり、お目当てだったキューティー・ハニーの連載が終わっても、少年チャンピオンの発売日には書店に行って店員に睨まれながら立ち読みしたり、小遣いが少なくて新品が買えないため発売日の夕方に路頭で売られる中古を握りしめた10円玉で買って、結局連載終了までの全話を読みました

別noteでも少し書かせていただいたとおり、中学生までの私は医者になる気でいたからというのもあるかもしれませんが、ブラック・ジャックの筋を通そうとする生き方、芯の強さや正義感独りでも戦う姿勢に強く惹かれていたのだと思います。

永井豪を卒業し手塚治虫に傾注したのも、この作品からだったかもしれません。
手塚治虫作品の中にある人間味あふれるストーリーにはいくつもの作品で感動をもらっていました。

こんな想いがあるので、正直なところAIが書いたと思いながら読んでしまい、なんか違うのではなという先入観も全くないわけではないと思います。

どうやって書かれた作品か

発売された2023年11月22日発売の少年チャンピオンには、この新作がどのように書かれたものなのかの背景、制作裏の記事が掲載されています。

それによると、この作品は決して生成AIだけ書かれたものではなく、AIと複数の人間との共同作業で書かれていたこと、しかもかなり多くの方が関わっていて、ひょっとしたら手塚治虫が漫画を描いていたとき以上に人も時間も手間もかけて書かれていたのではないかとすら思えるものになっています。

制作過程は、大きくは4つに分かれるそうです。
すなわち、プロット作成シナリオ制作キャラクター制作コマ割りペン入れ
生成AIで使われたのは、GPT-4とStable Diffusion。AIが作ったものに人間が手を加えるスタイルで作られています。

しかし生成AIに流し込むプロンプトでは「なんでもあり」になってしまうため、特定の世界観をもった出力結果とならなかったため、破綻のないストーリーとなるように人とAIの仲立ちをするインターフェース(AIとやり取りできるプロンプト作成エンジン)を作成して対応したとのことです。

膨大の作品データをAIに読ませつつも、そこからストーリーの鍵となるタグを設定し、それを組み合わせて出力したものを再度AIに読み込ませるフィードバックを入れて行ったりと、かなりの苦労が伺えます。
具体的な4つの制作過程についても大まかに紹介されていました。

まず、プロット作成。
ここでは作品の構造を研究し、手塚治虫作品に流れる三つの物語構造を見出しています。それを元に先ほど出てきたプロンプト作成エンジンでプロンプトを作成してGPT-4に流し込みます。そこから出てきた結果を見ながらシーン展開の修正、キャラクターの追加を行ったとのことですが、生成AIの作り出す意外性も担保するために修正の仕方には骨を折ったようです。

次にシナリオ作成。
ここは大幅に人間が手を入れたと書かれていました。
GPT-4への質問とそこから出てきた結果を見て、さらに別の要素を入力したり、結末が変わるようにする。意外なものが出てくれば、それにより人間側で考えていたシナリオを修正することもあったようです。ここは根気が要りそうですね。

そしてキャラクター画像の作成。
ここはStable Diffusionにセリフコマをカットした画像を読み込ませ、手塚のブラック・ジャックをとことん学習させていました。学習したStable Diffusionから出力された膨大な絵の中からシナリオやストーリーに合う画像を選択するとのことです。
私もStable Diffusionは時々使いますが、なかなか思った絵ができないこともあるので、ここは気が遠くなるような話だなと思います。

最後のコマ割り〜ペン入れのところについては、AIが作り出した絵はあくまでも参考画像とし、概ね人間がチームを組んでやっていたようです。

こうしてみてくると、AIが下書きをして人間が作品になるようにまとめてゆく、ような形で制作が進んでいったのがわかります。つまり、AIの作品というよりも人間のプロダクションがAIを含めたチームと苦労しながら作った作品であると言えるのかな、と。

違和感の正体(ここからネタバレあり)

この作品を読んだあと、私と同じかそれ以上にブラック・ジャックのファンである友人から以下のコメントをもらいました。
「らしさの集合体は本物とはちょっと違う空気をまとうんだなぁと思った」

本誌に掲載されている制作に関する記事の最後に出てくる言葉に、「AIは良くも悪くも空気を読まない」というのもありました。

そう。空気や雰囲気、世界観なんだと思うんです。
それがないとまでは言わないけれど、一貫性がないというか、流れとして不自然な感じを伴ってきていてストーリーに没入しにくいのです。
具体的な例を出しながら、どこがそうなのかを言いますね。(ネタバレです)

「私の手には負えない」と患者の父からの申し出を断ってから、ピノコの一言にモヤモヤするシーン。
患者を諦めきれないところはよくできたストーリーであり、「人間とは何か」という深いテーマに入ってきているなと思いました。
そこから執刀を決断するにいたるところで、なぜ決断したのかが見えない状況で話が展開し、結局そこで何があったのかは分からないモヤモヤ感。

ブラック・ジャックがピノコのセリフにヒントを得るシーン。
コマとコマとの間にもう一つ「間」のようなものが欲しい感じがありました。言葉を受け取ってからその意味を味わうための間のようなものが。
コマ割りの関係でそれができなかったのかもしれませんけれど。

ドクター・キリコも出てきていて、患者の父親とのやりとりのシーンとキリコの心臓に変調が出るシーンがありました。
確かにドクター・キリコらしい感じはあるのですけれど、登場人物の気持ちの機微のようなものが私には伝わってきにくかったです。
ページの都合もあったのかもしれませんが、キリコへの処置とブラック・ジャックのラストのセリフももう少し重みを持たせることもできてかな、と思えました。

あと、蛇足かもしれませんが、ヒョウタンツギやオムカエデゴンスなどのキャラクターによって空気を緩めるような手塚治虫らしさもありませんでした。
それだけ制作陣が、真摯に真面目に作品に取り組んでいたということなのかもしれないですけれど。

このようなところどころに現れてくる違和感の正体「らしさの集合体」の限界であり、「空気を読まない」からこその間の不在、なのかもしれないと私は思います。

AIだけでなくたくさんの人が集まってプロジェクトで行っているものであるがゆえに、一人の偉大な漫画家が作っている作品と違い、一貫性のある世界観や、自然な流れのようなものが表現しにくいのかもしれないとも思います。

AIと人とはどのように協働できるのか?

色々物足りないと書いてしまいましたけれど、ストーリーは十分に面白いと思いますし、AIによる人工臓器の制御や人間の体内の臓器ネットワークの話など、最新の医療に関する知見も求められていて、優れた漫画だと思います。

それでも私が往年の手塚治虫が書いたブラック・ジャックに感じていた、読んでいて心を揺さぶられるような感動をこの作品からは感じることはありませんでした
「らしくまとめられた」手塚治虫を読んでいるようなものであり、心を揺さぶるようなダイナミックさがかけていたのではないかと思います。

しかし、この作品でやろうとしていたことは実に素晴らしい試みであり、これでダメだというのではなく、ここからさらにAIが学習すればより良いものが世の中に出てくることになるだろうと思います。
ひょっとしたら、人が手を加えなくても良いようなものすらも。

そうなるためにはAIと人間はもっと対話が必要だと思いますし、AIにもっといろいろな体験をさせることも必要になってくると思います。
そう、ここでいう体験とは、失敗から学ぶ体験かもしれませんし、AIが自分を知る体験かもしれないですね。人と同じように

手塚治虫が書く漫画の中にも出てきていたように、人とAI(ロボット)が対立せずに協力しながらお互いを補ってゆく、そんな世界がいつかくると私は思っています。
AIが人の仕事をとってゆくとかではなく、もっと共同する体験を増やし、お互いを知るところからそれは始まってゆくのではないでしょうか。
何よりも私たちの未来がそれを待っている、と私は思います。

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