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「リアル」の価値は何にあるか?

私は今日(2020年6月9日)現在で在宅勤務が3ヶ月以上継続しています。「慣れた」はすでに通り越し、元に戻すのが困難になったなと思っています。
一般的に言う「習慣が変わるマジックナンバー3」の第3段階にきています。

習慣が変わるマジックナンバー3
慣れ親しんだ習慣が変わる時、そこには必ず「3」と言う数字がついて回ると言うある程度根拠のある俗説です。具体的には、、、
第一段階:3日」続けると4日目には違和感がなくなる(三日坊主)
第二段階:3週間」続けると古い習慣が書き変わる(薬物依存の解消期間)
第三段階:3ヶ月」続くと新しい習慣が定着する
最終段階:3年」続くと元に戻せなくなる
……ま、俗説ですが、当たらずとも遠からずか、と。

余談はともかく、Stay Homeが続く中、色々なものがオンラインで行われるようになりました。会議から研修、ワークショップもどんどんオンラインになってきて、そう言うものが立て続けに入ってくることでzoom疲れを起こしている人もいるかもしれません。

そんな中で、今までオンラインでやらなかった事、できないと思われていた事も次々とオンラインで実施せざるを得なくなり、やってみたらできたという具合に実現してゆくと、だんだんと「リアル」ってなんだっけ?となってきています。
今後Stay Homeが解けた時、これまでとは違うNew Normalがそこにあり、「リアル」が必須でなくなったとしたら、どう言う時にそれが必要になるのでしょうか?

ワークショップや研修がどう変化してゆくのかの中から、「リアル」の価値・意味について考えてみるのが今回のnoteです。

オンライン化の初期段階で起きた事

最初の頃は、リアルでやっていた内容を無理やりオンラインに持ってきていました。レクチャーは電話会議形式でやるか、eLearning化するか、ビデオにして一斉配信するところから始まります。一方通行のLearning 1.0状態ですが、それでもコンテンツの質さえ良ければ、十分に学習ができます。

次の段階は、zoomやTeamsを使ってやりとりを行うワークショップや研修です。二つとも新しい技術ではないですし、Webexのように大人数を対象に投票や書き込みをしながら進めるタイプの学習機会はそれまでもありました。それが単純に普及して当たり前になったと言うところです。
それでも、おそらくまだこの段階では「顔出し」はなく、画面共有と音声だけで進んでいたのではないでしょうか。

全員が在宅になった段階あたりで、音声だけでなく顔を見ながらのミーティングやワークショップが増え始めます。「会う」ことを皆が求め始めたため、それが自然に行われるようになりました。
面白いことに、「顔出し」するにようになるきっかけが「zoom呑み」「Teams呑み」だったりするのが日本的だなと思います。

組織の文化や話す相手との関係性によって顔出しするかどうかは変わってくるとは思いますが、表情が見えるようになったことで「対話型」のワークショップが行われるようになりました。
zoomでグループディスカッションをするためにBreak Outを使ったり、全員顔を出して対話をやったり…
当初はリアルのようには行かないかなと思う部分もありましたが、どんどんテクノロジーは進化してゆき痒いところに手が届くようになってきます。「挙手」やチャットとの併用でやりとりのバリエーションが増えたのがそれに貢献していますね。

同時に、オンラインゆえにリアルでやるよりも効果があったり、効率が良いという場面すら出てきました。

オンラインならではの強み

オンラインの強み、と言うか利点としていくつか挙げられますが、よく言われるものとしては、以下の5つがあるでしょうか。
1)集まる必要がないので、遠隔地からも人が集められる
2)人が集まるための場所を必要としない
3)アウトプットがその場でデジタルメディアに記録(録画含め)でき、終了後すぐに配信可能である
4)目の前の端末(PCやタブレット)の中の世界に集中しつつも、間や空気が読めないので質問や意見が活発となり、時間当たりの生産性が高まる
5)声の大きい人やポジションの高い人の存在感が小さくなるため(他のメンバーと平準化される)、意見が言いやすくなる

無論、回線品質や混雑状況によってフラストレーションを感じることもあるでしょうけれど、5Gの世界になればそれも解消しているでしょう。
つまり、オンラインは非常に効率がよくコストも大きくセーブできるのです。

討論や対話の質の方が気になるところですが、そこはオンライン・ファシリテーションを工夫したり、新たなツールでリアルでやってることができたり、オンラインならでの共同作業(コラボレーション)も起きてきています。
例えば、リアルでポストイットを使っていた演習が、シェアポイントでスプレッドシートに皆が書き込んだり、MiroDeskleなどのオンライン・ホワイトボードでブレインストーミングしたりできます。
リアルでは手書きやっていたものを後でタイプし直していたものが、その手間なくデジタルデータで最初から入力ができ、必要に応じてレイアウトを整えたり装飾を後からしたりすることで、分かり易くきれいなアウトプットが得られます。

このように、グループ討議やコラボレーション、オープンな対話もオンラインでできしまうとなると、ふと疑問が湧きます。
「さて、リアルで集まる必要があるのってどういうときだろうか?」

無論、リアルで会うことの良さはあります。その人の醸している雰囲気や存在感を身近に感じることができますし、顔だけではなく全体が見えるというのは大きいです。
でも、それを感じるだけがリアルで集まる意味でしょうか?

確かに、プロジェクトなどのキックオフなどでは、人となりが分からないのでリアルであった方が良いというのは今までも言われてきました。ただ、それだけが目的だと一瞬で終わってしまいます。時間とコストをかけ移動をしてくるわけですから、それなりの価値をそこに作る必要があります。それは「呑み会」だけでは断じてない…

…なんて、考えるのも ”New Normal” なのです。

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リアルの価値とは?

リアルで集う価値とは何でしょう?
私はそれは、「共通の体験」ではないかと思っています。

オンラインでできないのは、同じ場所に人々が存在し、同じの目的のために行動を共にすることです。画面上の共同作業ではなく、時空間を共にすることで記憶に強く刻みこむ、あるいは絆を作るということです。
古い言葉で言えば、「一緒に弾を掻い潜る」「同じ釜の飯を食う」ということになるかもしれません。

オンラインでは、自分はいつもと変わらぬ部屋にいて端末の画面を見ている状態ですので、いつのことだったか、誰がそこに居たのかすら記憶が曖昧になります。全身で体験をせずに頭だけ顔だけなので、記憶や印象に残りにくいのです。
オンラインになったことで「それっていつのことだっけ」と言うのが、カレンダーみないと思い出せないと言うことはないでしょうか?

リアルだと、寒かったり暑かったり、周りがどんな光景だったとか、と言うコンテキスト情報がリッチにつくので、体がそれを覚えているように思います。
しかし、そう言う印象だけ残ってもそれが行動変容につながって行かないことには意味があまりありません。会議室を離れたオフサイトが単なる「イベント」や「お祭り」になってしまうのと同じです。

そうなってくると、リアルで集まる時はその意味があるだけの「濃い体験」をできるようにしてやる必要があります。
例えば、プロジェクト・アドベンチャーとか共通の体験をして感情が昂ぶるような何かを行うことで記憶に残ることをやる…
頭を使うだけでなく、体を動かす、気持ちが動くような何かを意図的に組み込んで記憶だけでなく体感覚とワークショップの経験を紐づけると言うことです。

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New Normalではオンラインが「通常(Normal)」になるからこそ、リアルを「特別なSituation」としていかにプロデュースできるかが大切になってくるでしょう。決して、今までのノリで「取り敢えず集まってさ」とはならないのです。時間とコストをかけて集まったのに「なんだったんだろうね」となっては、ますますリアルから遠ざかってしまうでしょう。

リアルで集まれるだけの価値ある体験、それを設計するのは今後ワークショップ・デザインの新たなハードルになってゆくのかもしれません。
私もこれまで作ってきたものを単に再開するのではなく、「これはNew Normalの中でリアルでやる意味があるだろうか」と問い直してみたいと思ってます。

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