月槍の鐘

月槍の鐘

窓1つ無い暗い塔の中、右手に持つランタンの灯りだけを頼りに階段を駆け上がる1人の少女がいました。
その小さな身体を包む紺色のマントから見え隠れする手先や頬は白磁の様に白く、紅の唇や爪が闇夜に輝く明星の様に映えていました。
左手には長い棒状の物を持っており、その棒の片方の先端には球状の石突きがあり、もう片方の先端は円形の革でできた覆いで隠されていました。

塔の階段を駆け上がっていると、少女の頭上が僅かに明るくなり始めます。どうやら塔のてっぺんが近付いているようです。

少女が塔のてっぺんに辿り着くと、それはそれは大きな鐘が、天井から吊り下がっていました。
てっぺんの鐘楼は鐘の音を遠くまで伝えるために壁が無く天井を四つの柱が支えるばかりの風がよく通るもので、鐘楼に吹き荒ぶ風が少女のフードを薙ぐと、月の様な金と銀の入り交じった様な髪と夜の闇のような黒い瞳が姿を現しました。

少女はランタンを柱の1つに掛けると大きな鐘のすぐ近くの床に置いてある箱から珍妙な道具の数々を取り出し、それで東の空をあれやこれやと測り始めました。

「85...92...よし」

少女は観測器を箱に戻すと、手に持っていた棒についていた円形の革鞘を外しました。
そこには三日月の形を模した金色の刃が月明かりに照らされてきらきらと輝いていました。
彼女はその"槍"を両手で構え、満月を描く様に回し始めました。

「70...65...60...」

少女の秒読みと共に槍の回転は速度を増していき、月光を反射して輝く刃の残像が空中に円を描きます。
それと共に、東の空が暗闇から徐々に青みがかっていきます。
その光景はまるで少女が太陽を暗闇から手繰り寄せているようで、槍の回転速度が上がるのに呼応する様に空もほわあっと明るみを帯びていきます。

「5...4...3........」

東の海から太陽の最初の光が漏れ出すその瞬間、少女は槍の石突きで鐘を突きました。
まるで水面に広がる波紋を別の波紋が飲み込む様に、こおぉんと鳴り響く鐘の音と共に朝日が天高くそびえ立つ鐘塔と、その麓に広がる真っ白な街を照らしだしました。

アルテミシア島、ギリシアとイタリア半島の間に広がるイオニア海に浮かぶ小さな島です。
アルテミシア島は女神アルテミスから名を与えられ、真円に近い形と島全体を覆う白塗りの街並みから『満月島』と呼ばれています。
島の中心に建つ『月鐘塔』は地中海東部の貿易ー拠点として賑わいを見せる満月島の時を告げる象徴なのです。

その象徴たる塔の頂上に建つ少女の名は
『ポポン』遠い昔から何代にも渡って続く月鐘塔の鐘撞きの一族"月槍使い"の末裔です。

「ふぅ...よし」

ポポンはひと仕事終えると右手に持つ月槍の石突きを地面に突き立てて左手で額の汗を脱ぐってその手を腰に置いて小さく白い息を吐きました。

ポポンの仕事は一日三度の鐘撞き、日の出、南中、日の入りの時間を鐘を突いて知らせ、島の人々も鐘の鳴る時間に合わせて一日の仕事をします。

それからポポンは塔の長い長い階段を下って塔の外に出ると家路へと向かいます。とは言っても塔のすぐ隣にある小さな白い家です。

家の窓から漏れる小さな光と温かな甘い匂いに、ポポンの顔は思わずにやけてしまいます。

「ただいま」

元気な声と共に扉を開けると大鍋が置かれた暖炉の前で老女が炎に手をかざしていました。

「おやポポン、おかえりなさい」

「ただいまおばあちゃん、まだ寝てて良かったのに」

ポポンの祖母『イタポン』は元月槍使いで、ポポンがまだ幼い頃に塔の階段からの転落事故で亡くなった母の代わりにポポンへ月槍使いの技の全てを教え育てました。

「年寄りは眠りが浅いのさ、それよりポポン、カボチャのスープが煮えてきたから朝餉にしよう」

イタポンは年寄りにしては皺の少ない柔らかい手で木のレードルを持ってスープを掬い取ると、白樺のボウルに入れていきます。
ポポンもテーブルを拭いたり、スプーンを用意したりと準備を進めます。

テーブルに火の着いた蝋燭と2つのボウルと木のスプーンが並び、2人は向かい合って月の女神に祈りを捧げます。

「天にまします月の女神よ、本日も新しい朝と今日を生きる糧をお恵みくださった事に感謝します」

シチューを1口入れると、魚の脂やカボチャ、牛の乳等の温かな数種類の甘みが渾然一体となってポポンなんとも幸せな気分でニコニコします。

「んふふ、おいしい」

孫の幸せそうな笑顔にイタポンもしわくちゃの顔で優しく微笑みます。

2人の楽しい食卓へ奥の部屋からポポンの父『ズポン」が姿を表します。
ズポンは島の北のマーケットで焼き海鮮の屋台をやっていますが、ポポンの母を亡くしてから元気がありません。

「また今朝もギリギリに出たなポポン、いつも余裕をもって仕事をしろと言っているだろ」

「ギリギリじゃないわ、ちゃんとした天文学に基づいたピッタリの時間だよ」

もう一人前だというポポンと母親の二の舞になるのではないかと娘を心配するズポンの間には壁があります。

「時間が解るならもっと早く行けばいいじゃないか」

「冗談じゃないわ、ただでさえ暗いうちに起きて仕事に行くのにそんなことしていたら寝る時間が無くなっちゃうよ」

月槍使いの朝の鐘撞きは日の出の時、起きる時間は自ずとまだ暗い時間になります。
塔の長い階段を歩いて登るのはとても時間がかかり、時間を合わせるとなると今よりずっと早く起きなければなりません

「そんなものは夜酒場に行くのをやめればだな...」

「いい加減にしないかズポン」

2人の話を聴いていたイタポンが、凄みの効いた声でズポンの言葉を遮りました。

「そんなに余裕をもってと言うならまず自分が示してごらんなさいな、今からでも市場に行ったらええ」

イタポンが話に入ってくると思わなかったズポンは鳩が豆鉄砲を喰った様に口をパクパクさせます。

「あ、朝飯は」

「嫌味な子に食わせる飯なんかないよ、さっさと行きな」

終始イタポンに圧倒されたズポンは、機嫌を悪くして家を出ていきました。
ポポンもすっかり気分を落としてしまいました。
イタポンは老体とは思えぬ食欲でシチューを食べ切ると、ボウルとスプーンを置いてポポンの頭を優しく撫でました。

「ごめんねポポン、アレは私に似て頑固に育っちまったもんでなアンタが母親似で良かったよ」

「いいのおばあちゃん、あの、良かったらお母さんの話を聞かせて、お母さんが死んだ時私まだ小さかったからどんな月槍使いだったか知らないの」

いいだろう、とイタポンは小さく頷いてゆっくりとポポンに語り始めました。

ポポンの母親『アリシア』はギリシアの生まれで島の外からやって来ました。
女の身でありながら天文学者の彼女は当時とても珍しく、当時月槍使いだったイタポンは賢いアリシアをえらく気に入り、彼女と共に月鐘塔に一緒に登りエリシアの天体観測を手伝いました。
エリシアはそのお礼として星の流れから性格に日の出を予測する技術と道具をイタポンに授け、それは時が経った今もポポンの仕事に役立っていました。

エリシアは宿の代わりにイタポンとズポンがいる家に居候していました。
ズポンはエリシアの賢さに、エリシアはズポンのまっすぐさに惹かれ、若い2人は当然の様に結ばれました。
イタポンから月槍使いの仕事と技を受け継いだエリシアは自分が培ってきた天文学の知識を活かして時間ピッタリに鐘を鳴らしました。イタポン曰くこれは歴代の月槍使いの中でも初めてのことで、エリシアは最高の月槍使いだったと誇らしげに話しました。

「でも、死んじゃった」

「そう、ある日階段で足を滑らせたエリシアはそのまま落っこちて死んだ、だけどねポポン、月槍使いの仕事には常に危険が付き纏うもんだ、あの子だって気をつけていたが悲しい事故は起こってしまった。それは仕方の無いことだ、だから誰がなんと言おうとあの子は最高の月槍使いだった」

アンタもきっとそうなると付け加えてイタポンがまたしわくちゃな顔でポポン優しく微笑みかけると、ポポンも小さく微笑みました。

その日の夜、日の入りの鐘を突いてひと仕事終えたポポンは行きつけの酒場で煮干しでビールを飲んでいました。

「アンタ本当にソレ好きねぇ、他にも肴ならあるのに」

ポポンの幼なじみで酒場の店主のグリミアがポポンをからかいます。
グリミアは歳若い娘ながら1人で店を上手く切り盛りしているので、店は毎晩常連客で賑わっています。

「美味しいよ、グリミアも食べる」

「食べないよ、それは猫の餌だって」

「いいから、食べよ」

「食べねぇって...ちょ、ちょっと圧が強い」

ポポンが煮干しをグリミアの顔に押し付けてグリミアがバツの悪そうな顔をしていると、島民の1人が慌てた様子で入って来ました。

「ポポン大変だ、すぐそこで船乗り共の乱闘騒ぎが起きてるから急いで来てくれ」

「わかった、すぐに行く」

ポポンは加えていた煮干しをカウンターの上の木皿に置いて残りのエールを飲み干すと、壁に立て掛けていた月槍を手に取り店を飛び出します。

「食べちゃダメだよ」

「食べねぇよ」

店を出て少し走るとガラの悪そうな屈強な5人の男達が殴り合いの乱闘をしていました。
ポポンは言葉で仲裁しようとしますが男達がやめる気配は一切無いので、ポポンは月槍をくるりと回すと舞い踊る様に優雅でありながら鋭い動きで石突きを使って男達を薙ぎ払いました。
怒りの矛先がポポンへと向いた男達は剣や近くにあった棒等を武器に向かっていきますが、ポポンが持つ月槍の三日月型の刃が月の光に照らされて黄金の輝きを放ったかと思えば、空中に満月を描く様な美しい動作で剣を絡め取り、木の棒を断ち切って男達から武器を取り上げてしまいました。

「ひ、ひいいい」

男達は怯んで尻もちをついてしまいました。

「ほら、喧嘩はもう終わり、お船に帰りなさい」

ポポンが石突きで石畳の地面をガツンと突くと男達は蜘蛛の子を散らす様に逃げ去って行きました。

「さてさて、お店に戻って飲み直し」

彼女はポポン、月鐘塔で鐘を突く月槍使い。
彼女は満月島の人々に時を告げる象徴であり月夜に舞う守護者なのです。


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