蛙の沢



今から180年の昔の事、宮城北部の岩手ととの境に近いところに蛙沢と呼ばれる沢がありました。
草木に囲まれ川辺の岩が苔にまみれ辺り一面緑一色の蛙沢は、その名の通り蛙達がよく集まる場所でした。

沢のすぐそばでは大人になったばかりの若蛙達がぴょんぴょこぴょんぴょこ跳ね回って遊んだり、子が生まれて間もない親蛙達は心配そうに卵やオタマジャクシ達を見守り、歳をとった老蛙達は碁や将棋を打ったり飛蝗の脚などを肴に酒葉草についた酒露や小さな煙管で煙草を嗜むなどしていました。
権八郎もそんな老蛙達の一匹でした。

権八郎は林檎程の大きな蛙で、茶色くゴツゴツしたしわくちゃな身体に左三つ巴の入った黒紋付を羽織って、沢のほとりの苔まみれの岩の上で目をぎゅっと絞って煙管で煙草を吸いゆっくりと細筆で描いた様に細い青い煙を吹くのが日課です。

ある日の昼下がり、権八郎はいつものように煙草を吸い酒露を呑んでおりました。
すると後ろからペたり、ペたり、ペたりとゆっくりと足音が近付いて来ました。

「今日はなんの用だ。弥吉」

権八郎が振り返る事も無く悪態をつくと、後ろからやれやれと声が聞こえてきました。

「そう言うなよ権八郎、今日こそおめぇさんがひっくり返る様なネタを持ってきたのさ」

弥吉は権八郎と昔馴染みの蛙で、とても噂好きの蛙でした。
どうやら今日も何か噂話を持ってきた様です。

「そうかい、いつもそう言って大したことないだろう」

「そぉんなこと無いだろぅ」

弥吉の声は膨れたようにわざとらしく言います。
権八郎は相変わらず振り向きません。

「権八郎、世界がひっくり返るぜ」

「世界がひっくり返る。ねぇ」

弥吉のいつもの大袈裟かと権八郎は鼻で笑うと、ふぅっと水に溶けた砂の様な濃い煙を吐きました。

「人の将軍が帝に政を返したそうだ。南の方じゃ見たとこともねぇような異国人が大きな黒い船に乗ってやって来たとの事だ。新しい時代が来るんだよ」

「新しい時代ねぇ、変わるのは人の世だろう、俺たち蛙にゃぁ関係のねぇ話さね」

権八郎はまたゆっくり万年筆で描いた様な細い煙を吹くと、酒露を一口呷り身体をぶるりと震わせます。

「見た事の無い道具、見た事の無い乗り物...新しい物が海の向こうから濁流の様に流れて来る。ここにもいずれ人がやって来るぞ」

権八郎は何も答えず、振り返るどころかぴくりと動じる事も無く、ただじっと遠くを眺めていました。
そんな権八郎の態度に弥吉の声にも苛立ちが聞き受けられます。

「とにかくどこかに逃げねぇと、もっと山の上か奥か、北を目指すか、それとも海を渡って大陸に行くか...なぁ権八郎、なんかせめて答えてくれよ」

権八郎はまた1つ...ゆっくりと煙を吐きました。それから暫く俯いて、口を開けました。

「なぁ弥吉よ、俺がもしあの日お前に付いてどこかへ行ったなら、こうはならんかったんかのぉ」

弥吉の声は権八郎の言葉に対して懐疑的なものに変わりました。

「どういう事だよ権八郎、一体何の話をしてるんだ」

いつの間にか権八郎は煙管の中の煙草を吸い切っていました。
時はもう黄昏時、蛙沢を紫色の影が覆い始めると周囲にいた蛙やオタマジャクシ達が、まるで夜の闇に溶けていくように薄くなっていくのです。
沢のすぐそばでぴょんぴょこぴょんぴょこ跳ねていた若蛙達も、心配そうに我が子達を見つめていた親蛙達も、碁や将棋を打ちながら飛蝗の脚を食い酒や煙草に興じる老蛙達も、皆たちまちに宵闇に消えかかっていきます。

「すまねぇな、まだそっちには行けそうにねぇや、また明日な弥吉」

「何言ってんだよ、権八郎...」

後ろで聞こえていた弥吉の声もだんだんくぐもった音になっていき、権八郎から離れて行くように小さくなっていきます。

そして、夜がやって来ました。
そこには誰も、誰もいませんでした。
沢に溢れかえる程いた蛙やオタマジャクシの姿は何処にも無く、川のほとりの苔まみれの岩に1匹年老いた蛙が座るばかりです。
先程までの喧騒が嘘の様に、静寂が辺りを支配する中、虫の声と遠くを走る列車の音だけが響いていました。
権八郎はトントンと煙管を叩いて中に入っていた煙草の燃えカスを捨てると、また新しい葉を入れ火打ち石で火を付けました。
夜の闇の中に小さな煙草の火だけが浮かび上がっていました。

ここは、蛙沢。
蛙が生まれた地と呼ばれる場所。
ここで生まれた蛙はどれだけ離れた土地でその命が尽きようとも、その魂は彼等の故郷である沢を目指して帰って来る場所なのです。
だから権八郎は今日も明日も待ち続けます。

...皆が帰って来るのを。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?