笑劇論 - なぜいま文学か


文学とは何か?この問いに対して含蓄ある答えを期待するかもしれませんが、筆者としては少し退屈です。そこで、借りてきた回答しかできませんが、文学の原語"literature"はラテン語の"littera"(文字)に由来し、文章形式または言語形式によって、人間の精神を客観化したものを含めて広く指します。ただし、「人間の精神」とは具体的に何を指すのでしょうか?

次に、なぜ今、特に「文学」にこだわる必要があるのでしょうか?筆者は文学にこだわっているわけではありませんが、興味は文学に向けられています。文学は決して完璧ではなく、排他的でもありません。ラブレーや他の作家の作品を通して、文学が抱える多様な側面に興味があります。そして、作家たちが「おれ」という存在の中で世界に投与されている制約の中で奮闘し、人間の複雑さを描き出すことに魅力を感じているのです。

ここからは少し唐突かもしれませんが、筆者は笑劇について考える時期に来ていると感じています。笑劇とは何かを探求したいと考えています。それは糞尿のような下品なものを含むかもしれませんが、それだけではただの再現に過ぎません。笑劇には芸術性があり、高尚な部分が含まれている必要があります。現代の下ネタの多くは、ラブレーの作品を模倣しただけで、真の笑劇ではありません。倫理的なテーマを扱った作品も同様で、単なる暴力の表現に過ぎず、真の意味での笑劇とは言えません。

そうした笑劇やグロテスクな表現について、バフチンの「グロテスク・リアリズム」という美的概念が関連しています。グロテスク・リアリズムは物質的・肉体的な力を肯定し、高貴なものを格下げして再生させ、生と死、新旧、始まりと終わりなどの両面的な価値を持ちます。ラブレーやセルバンテスなどの作家はこのグロテスク・リアリズムの特徴を持つ作品を創り出していました。そして、彼らの作品は笑劇とも深い関わりを持っているように思われます。

文学において知と暴力は密接に関連しており、ラブレーは暴力を知的に相対化し、セルバンテスは知を暴力的に相対化しています。このような側面から笑劇やグロテスクの表現を理解することができます。ただし、これらの側面は一貫して相対主義と相容れないため、愚者や痴れ者と見なされることもあります。しかし、笑劇やグロテスクは、知識と暴力を結び付けることで深い洞察と意味を持つものとして、文学の中で魅力的な存在です。

最後に、ラブレーやセルバンテスなどの作家によって描かれる笑劇やグロテスクな世界は、私たちが考えるよりも遥かに豊かであり、探求すべき重要なテーマだということが示唆されています。

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