『高野聖』の檜の描写が印象深いです。
これを読むと、石川淳『狂風記』の冒頭を思い出します。
『高野聖』ではこのあと僧は美女と謎の男のいる家に迷い込むことになり、『狂風記』ではさっそくゴミ山から屑掘りの主人公が登場します。
『高野聖』は僧が迷い込んだ山奥の異界、『狂風記』は、ほとんど異界な裏社会にうごめく群像を描いていますが、両作とも、現世と異界の境界を区切るものとして「大木」があるように思います。
後続者・石川淳は昭和の社会のゴミ山を、泉鏡花の幻想世界の舞台としての山として見立てているようにも思います。
『高野聖』の山は根が露わになりつつも生きている檜、そこから溢れ出る「水」と関連付けられ、『狂風記』のゴミ山は倒木であるけれども根が深く隠れており、まるでふつふつと発熱する火山、つまり「火」と関連付けられていて、恐ろしくも神秘的で幽玄な世界へと誘う『高野聖』に対し、怨念と陰謀がおどろおどろしく絡まる『狂風記』というように、対照的な構図になっていると思います。