『アンナ・カレーニナ』観劇
2019年の宝塚歌劇団月組公演にて、初めて出会った本作品。出会いから1年以内に、文庫本で計4冊、総ページ数2000ページ超えの原作を読破した。
広大なロシアの土地のように、読んでも読んでも終わらない長い道のりの原作を読み終えて、一層この作品の魅力にはまってしまった頃、宮沢りえ主演で2020年夏に舞台化されるとの情報が入ってきた。チケットを購入し、上演の日を心待ちにしていたが、突然のコロナ禍により上演自体が取りやめに。演出家、出演者、スタッフの皆さんは相当に悔しい思いをされたと思うが、私も悔しさと喪失感に襲われた。
「いつの日か必ず上演を!」と心の中で願っていたら、2023年になんとその願いが現実に!とても喜ばしいこの機会。2/26(日)と3/18(土)に計2回観劇することが叶った。
原作や、舞台版で唯一観ていた宝塚版と異なるのは、前提“子どもの視点”で描いているということ。アンナの子であるセリョージャを中心に、スティーヴァとドリー夫妻の子ターニャとグリーシャなど、子どもが密かに影から大人たちのやりとりを見ている。でも大人たちはその視線に気づかないまま、純粋な子どもたちからすると大変に醜いやりとりを繰り広げていく。
子どもの視点が常にあることを表すため、多くの場面で子役が舞台上にいることはもちろん、舞台セット自体を子供部屋のような空間に作り上げるという演出がなされていた。マトリョーシカや木馬、ドールハウスといった、当時のロシアの上流階級の子供部屋にあったであろうおもちゃが舞台のそこかしこに並ぶ。そして、板の上には、内側を金色に装飾された大きな長方形の箱のような装置が。パンドラの箱やおもちゃ箱を表しているそうだ。
セット転換はほぼなく、大道具や小道具(大きくてもせいぜい長テーブルテーブル兼ベッド)をキャストたちが持ってきたり引っ込めたりして場面を切り替えていく形式。基本的には、アンナ側の人たちの場面と、リョーヴィン側の人たちの場面が交互に入れ替わっていく。
また、各場面におけるコロスが集団で突然叫んで汽笛を表現したり、アンナの子どもであるセリョージャがお気に入りの汽車のおもちゃを走らせたりする演出も特徴の一つ。原作の内容を知ったうえで観劇する人たちは皆、それが何を意味するか察するだろう。節々で観客に、この先起こるであろう悲劇を予見させるのだ。
主要キャストについてもぜひ触れておきたい。キャストの皆様に対しては、個人的にも大好きなこの作品を、大変な熱量を持って表現し、伝えてくれたことに感謝の気持ちでいっぱいだ。
アンナ・カレーニナ役 宮沢りえ
2020年に“宮沢りえ主演でアンナ・カレーニナ”と発表があった時から、個人的には胸の高鳴りを抑えきれないほどに楽しみにしていた。あれほどの美人で、且つ役者としての実力も誰もが知るところの人物。大変なハマり役だ。最初の登場から圧倒的な美しさ、輝き、存在感を放っていた。
アンナは知的で品があり、ロシア社交界の華と言われる存在。作品の前半では、その通りに知性と理性を携えながら周囲と関わっている姿が印象的だった。
ヴロンスキーとの出会いの際は、彼に異性としての魅力を感じたのであろうが、表面にはあまり表さない。だがそこからヴロンスキーが攻め寄ってくるにつれ、徐々に抗えなくなり、本能を解放していく過程を巧みに表現していた。
初恋も知らずに、貴族社会の習わしにより、恋愛対象ではないカレーニンと結婚し、セリョージャという子をもうけたアンナ。でも別に、そのことを不幸と感じていたわけではなく、愛する子を持ちそれなりの幸せは感じていたのだろう。そうして自分の中に大した荒波もなく(自分の内側に潜む激しい感情の存在にそもそも気づくことなく)生きてきたが、ヴロンスキーに出会って全てが一変してしまう。渇望、執着、依存……序盤と後半では、まるで別人格と思わせるほど人が変わっていて、りえさんの芝居の技量にただただ感服するばかりだった。
夫であるカレーニンやセリョージャへの裏切り…アンナはいくつもの罪を重ねていく。重ねるうちに「私を赦して」「私には赦しが必要」そんな台詞が増えていくのも印象的だった。「愛されたい」「赦してほしい」そんな言葉が、彼女の自分本位な心情を表していた。彼女は初めて愛を知ったものの、愛するより愛されたかったのだろう。それがヴロンスキーを苦しめ、自分のことも苦しめていく…。本能のまま行動する潔さに感動すると同時に、見ていられないほどの哀れさも感じるアンナがそこにはいた。そして、外見があまりに美しいだけに、その哀れさが一層際立っていた。
アンナの最期の場面。文明の発展を象徴する電気が、汽車の線路を形取り、アンナの周りを取り囲む。8:02の汽車が駅に到着すると、轟音とともにアンナはその線路に溶け込んでいく…。もう誰も彼女を救うことはできない段階まできてしまっていたことに、やるせない気持ちで胸が苦しくなった。
アレクセイ・ヴロンスキー役 渡邊圭祐
原作よりも少しドライな人物に描かれている印象を受けたヴロンスキー。どんな役でもクールに見えてしまいがちな渡邊圭祐くんの特性も、演出の意図も、両方あったのだろう。
ある程度の距離を取り、“狩り”として恋愛を楽しんでいたはずのヴロンスキーは、アンナを“狩った”ところから人生が一変してしまう役どころ。言わずもがな、ルックスから美青年貴公子にピッタリで、アンナやキティをはじめとした女性陣が虜になってしまうのも納得の美しさだった。
アンナの外見や肉体の魅力にのめり込むうちに、これまでの女性には取れていたはずの距離が取れなくなり、冷静さを欠いていく様を繊細に演じていた。
後半にいくにつれ、アンナとの関係性が悪化し、喧嘩になることも。感情を爆発させるところは渡邊くん本人の印象からするとかなり新鮮で、新たな面を見ることができたように思う。
ただどうしても気になったのは、最後の一連の台詞。原作を読んだのが3年以上前のため、私自身記憶を失っている可能性は大いにあるが(笑)あの台詞は原作にあったっけ…?興醒めというか強い虚しさというか…アンナの人生はなんだったのだろうと、思わずにはいられなかった。
アレクセイ・カレーニン役 小日向文世
このキャストが発表された時点で、小日向さんはカレーニンを演じるには柔らかい印象がありすぎるのでは…?と思っていたが、持ち前の柔らかい雰囲気とカレーニンの硬質さを絶妙にミックスした芝居になっていて、小日向さんならではのカレーニンに出来上がっていると感じた。
まず、カレーニンの独白の場面は強烈な印象を残したと思う。客席に話しかけるようなスタイルで、自分の脳内での自問自答を繰り返す。カレーニンの人間性や性格を観客にはっきりと印象づける芝居だった。最初の登場の、アンナを“おかえり”と迎え入れる場面がかなり優しそうな印象を受けただけに、この独白の場面はイメージ通りのカレーニンの人間性が現れていて、個人的にも胸が高鳴った。
後半にいくにつれ、カレーニンはこれまでの人生で感じたことがないほどの屈辱を味わう。それなのに、硬質さの中に隠された真の優しさは失われることがない。どんなに自暴自棄になり、心身共に乱れようと、アンナを突き放すことはしない。
アンナ自身も、カレーニンの優しさには気づいていた。だからこそ心から憎んだり嫌いになったりすることはできなかった。後悔先に立たずだが、ヴロンスキーと出会っていなければ、アンナとカレーニンはそれなりに平穏に生涯添い遂げていたのだろうなと、もう一つの未来を想像せずにはいられなかった。
一方で、カレーニン対セリョージャという組み合わせに着眼すると、カレーニンの孤児として育ったという背景が浮かび上がってくる。アンナがヴロンスキーと出会う以前から、カレーニンはセリョージャを上手に愛せていない。親に愛されてきていないゆえ、自分の子をどう愛したら良いのか分からなかったのだろう。外の世界では非常に頭脳明晰で立派な地位にいるカレーニンだが、欠落した部分があるところが、逆に人間らしいと感じた。
アンナが亡くなった後のカレーニンは描かれていないが、この先ちゃんと生きていくことができるのだろうかと、心配せずにはいられなかった。
リョーヴィン(コスチャ)役 浅香航大
もう一人の主人公と言っても良いリョーヴィン役には、8年ぶりの舞台出演だという浅香航大。まず、一言で言って、彼のリョーヴィンは非常に良かった。
田舎的で大地を愛し、理性的で色々と考えすぎる節があるリョーヴィンは、本能的で自らの欲求のままに行動したアンナとは、対局的な人物として描かれる。かと言ってつまらない人間ではない。大好きなキティのこととなるとものすごく臆病になったり、ショックを引きずり続けたり、可愛らしいキャラクターだ。朝香はそのリョーヴィンを茶目っ気たっぷりに演じていた。
リョーヴィン側の場面は、アンナ側の場面と交互に出てくるため、アンナ側の場面で止まっていた呼吸が戻ってくるとでも言おうか。貴族でありながらも田舎で自然と共に暮らしている彼を見ると、心が和む。キティとのやりとりなどは、いつも心がホッコリ。彼らの平穏な暮らしが観客に安らぎを与えてくれた。
でも、安らぐのも束の間。不穏な音楽と共にまたアンナたちの場面に引き戻される。両者の生き様を行ったり来たり交互に見ていくことで、同時代で同じ貴族という立場でありながらこうも違う人生になるのかと、人それぞれの人生の違いを複雑な感情で見守るしかなかった。
キティ役 土居志央梨
今作で初めて存在を知った彼女。これまたとてもチャーミングな女優さんだった。
若さゆえ、最初は華やかで美しいヴロンスキーに恋焦がれるキティ。ヴロンスキーが突然アンナに乗り換えたことで、ひどく傷付き病んでしまうもの、辛さを乗り越えリョーヴィンからの真の愛に気づいていくという役どころだ。
リョーヴィンとの掛け合いは、もう可愛くて可愛くて仕方がない。リョーヴィンとの再会後は、お互い面と向かって話すことができず、小さな黒板に文字を書いて気持ちを伝え合う。不安や申し訳ない気持ちを抱えながらも、今度こそはリョーヴィンに向き合おうとしてる様子がいじらしく、魅力たっぷりに演じていた。
結婚したキティは、リョーヴィンとの間に子どもを授かる。出産前に、亡くなる直前のリョーヴィンの兄を看病する時には、病気でドイツで療養していた頃の彼女の姿はもうない。看病のためテキパキと行動する姿は逞しく、成長を感じさせた。
ドリー役 大空ゆうひ
アンナの兄スティーヴァの妻ドリーには大空ゆうひ。スティーヴァに浮気され、ドリーが怒り嘆くところから物語がスタートするのはもちろん、物語全体を通して非常に重要な役どころだ。
アンナは浮気症である兄とドリーの仲を取り成すが、物語の後半ではドリーがアンナとヴロンスキーの仲を取り成すような役割を担うのが皮肉だ。
浮気されても、子どもたちや生活のことを考え、スティーヴァから離れないことを決めたドリーは、心の中では想いのままに行動をしたアンナを羨んでいる。でも久々にアンナに会いにいったら、思っていたような幸せな生活とはまるで違う暮らしをしていたアンナ…。アンナに寄り添いながらも、「自分の想いのままに行動したからと言って、必ずしも幸せになれるわけではない」ことを悟ったドリーは、一歩、いや二歩三歩引いた状態でアンナを見つめる。その視線が観客の気持ちを代弁してくれているようだった。
その他のキャスト
他にも、個性豊かなキャスト陣が、それぞれに濃ゆいキャラクターを演じた。
ドリーの夫・アンナの兄であるスティーヴァには、梶原善。本当にどうしようもない男であるが、完全に憎みきることができない、という絶妙な塩梅を見事に表現されていた。
また、出番が特別多いわけではないものの、とても印象に残ったのは、田舎でリョーヴィンのもとで働くペトカを演じた片岡正二郎。ドリーが一人アンナに会いにいくため、ペトカに馬車を走らせてもらっている場面では、ドリーとペトカが会話が繰り広げられる。ドリーがすごい勢いで話すものだから、1割程度しか言葉を発していないペトカだが、そこで作中において最重要と言っても過言ではない一言を発する。
「奥様、人生です。」
辛いこともたくさん経験してきただろうに、全ての出来事を受け止めた上でのこの一言だったのだろう。人は、辛いことが起こると、嘆き、あれやこれやと騒ぎ立てるが、全ては長い人生における一つの出来事にすぎず、受け止め折り合いをつけながら生き続けていくしかないのだ。そんなことを考えさせられる大変重要な一言が、今も耳から、頭から離れない。
また、今作では、コロスの役割が各場面にかなりの深みと味をもたらしてくれていた。全ての役について語り出したらキリがない。脇役の演者がここまで印象に残ったのは、役者一人ひとりの実力はもちろん、演出のフィリップ・ブリーンの細部までのこだわりゆえだろう。
まとめ
多角的に「人生とは」と問いかける『アンナ・カレーニナ』という作品。初めて原作を読破した3年前に「これは人生におけるバイブルだ」と感じたほどだったが、今回改めてそう痛感した。
人生に正解はない。だから、アンナが不正解で、リョーヴィンが正解ということではない。結末がどうなるかは分からないけれど、ただひたすらに自分が思い、望む道を選択して進んでいくしかないのだ。恐怖や不安がつきまとうことがあったとしても、一つひとつ、悔いのないように積み重ねていきたいーー。そう実感させられる機会となった。
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