メンヘラにとって、努力は、魂を現世に繋ぎ止める鎖である

がんばれ〜〜!

誰もが使う応援の言葉だ。
がんばれ、とは努力しろのフラットな形と言っても過言ではない。

しかし、クリエイティブな世界において、努力は手段の1つに過ぎない。売れたい、お金を稼ぎたい、社会に認められたい、うまくなりたい、という目的と努力が入れ替わってはならないのだ。

努力が目的になってしまうと、言い訳の余地が生まれる。「こんなに努力したのに!」と、志半ばで諦める人は多い。
努力依存は恐ろしい。
努力をするのは気持ちいい。やってる感がでるため、目的を見失っても、努力をがむしゃらに続けてしまう。

努力にしがみつくのをやめ、客観的な分析に基づくPDCAサイクルをまわそう!

……近頃よく見かける言説だ。
間違いない。道を極めるためには必要な考え方だ。
だが、私はあえて提言したい。
生きるために努力が必要な人間が、実はいるのだ。

その名も、メンヘラ。

特に幼少期、虐待・いじめなどの加害に晒されたメンヘラ。
私もそんなメンヘラの1人だ。

努力がコスパが悪いことなんて分かりきっている。
それでも、努力していないと、自分の生存すら許せない。
努力をやめた瞬間、心の奥から、過去のトラウマがありありと蘇る。
生まなきゃ良かった。
失敗作。
早くしになさい。
あんたのせいで。

実際に言われた罵詈雑言に足を取られて、沈まないための補助装置として、実は努力が有用なのだ。

なにかをがむしゃらに頑張っている時は、トラウマについて考えなくて済む。

集中していれば、雑念が飛ぶ原理と一緒だ。

くわえて、他者に強く自己を否定された者は、努力をしていない自分を許せない。
自分を許すための応急処置として、努力をする。
そのせいで精神疾患を発症しても休めない人が多いのではないだろうか。

努力は決して悪では無い。
努力しないと生存出来ない者もいる。

これらを踏まえた上で、私は無理な努力の積み重ぬは、ささいな努力をするパワーさえ奪うと警鐘を鳴らしたい。

人間の心身には、キャパシティがある。
どんなに頑張っても、心身の許容量を劇的に増やすことは出来ない。

無理やり努力を続けると、心身の体力が底を尽きてしまう。
1度体力が失われると、身の回りの生活すら成り立たなくなる。
私自身、無理な努力の果てに双極性障害が悪化し、何ヶ月も入浴すら出来なかった。
当時は本当に悔しかった。頑張りたいのに頑張れない自分に絶望した。

努力主義のメンヘラの考え方は、なかなか変わらないと思う。
だからこそ私は、努力をコツコツ続けるために、無理な努力は控えようと呼びかけたい。

自身のキャパシティに向き合い、明日も生存のための努力を重ねよう。

努力は才能や結果を得るための手段ではないが、他ならぬ自分自身を許すための工夫なのだ。

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