松村沙友理篇 制作日記No.11〈『涼宮ハルヒの憂鬱』の主観〉
2021年2月12日(金)
お疲れ様です。ご無沙汰しております。
乃木坂46メンバーの卒業後を描いたファン・フィクション小説を書いています。
現在、『振り向けば青春~あの後の彼女たち~』松村沙友理篇のチャプター1(第一稿)を公開中です。
今回のテーマはつい最近読んだ谷川流さんのライトノベル、『涼宮ハルヒの憂鬱』についてです。
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▼『涼宮ハルヒの憂鬱』
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『推し、燃ゆ』、『トラペジウム』に続いて、ライトノベルの金字塔『涼宮ハルヒの憂鬱』を読みました。
理由は2つです。
①ライトノベルを読んだことがなかったから勉強のため
②松村沙友理が『涼宮ハルヒシリーズ』のファンだから
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▼再び「時制と意識の問題」
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読みながらまず考えたのは、制作日記No.9でも書いた「時制と意識の問題」です。
制作日記No.9も合わせて読んでいただきたいところですが、内容をかいつまんで話すと、『推し、燃ゆ』を読んで僕はこんな仮説を立てました。
▼詳細はコチラ
松村沙友理篇 制作日記No.9〈『推し、燃ゆ』から得たもの〉
『涼宮ハルヒの憂鬱』は、主観によるモノローグの形をとっています。
ただ、全編を通して過去形というわけではありませんでした。
基本的には主観が自分や他の登場人物の行動を振り返って語っているので過去形です。
ところが、会話が中心のシーンになると、主観の心の中でのボヤキやツッコミと実際の会話が入り交じってしばしば現在形がみられます。
この使い分けをひとつの作品に違和感なく落とし込める文章力に脱帽です。
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▼本名を明かさない物語のお手本
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『涼宮ハルヒの憂鬱』では“書き言葉”より“話し言葉”に近い言い回しが使われていたり、
読者に向けての投げかけや、以前の文章についての言及といったメタ発言も多く見られます。
さて、
これまでも何度か言っているとおり、松村沙友理篇の主要な登場人物である〈沙友理の夫〉と〈沙友理の病室の隣人〉には名前をつけたくないと考えています。
▼詳細はコチラ
松村沙友理篇 制作日記No.4〈前言撤回〉
そして、登場人物の名前を明かさないまま物語を成立させるための条件は2つあるところまでとりあえず分かりました。
①名前のない人物の主観で物語を進める
②その人物はまわりから名前以外のもので呼ばれている
現在(2021.02.12)公開中の松村沙友理篇チャプター1で言えば、
名前のない人物=〈沙友理の夫〉主観で物語が展開しており、彼は〈平井くん〉からは「先生」と呼ばれています。
さてさて、、
『涼宮ハルヒの憂鬱』は小説の主観の名前を明かさないまま物語として完成している成功例です。
主観である男子高校生はキョンというあだ名で呼ばれていますが、結局最後まで本名は出てきません。が、それが全く不自然ではありません。
どうやら、主観の名前を明かさない構成と軽快でメタ要素を含む語り口は相性が良いみたいです。
じゃあこれが松村沙友理篇にすんなり転用できるかというと、そうはならないと思います。
原因は〈沙友理の夫〉の設定にあります。
社長の座を譲り妻との穏やかな余生を願っている60歳過ぎの老人と“軽快でメタ要素を含む語り口”の相性ってすこぶる悪いですよね。
松村沙友理篇の今後については、
・今のままで文章表現をもっと磨くか
・もっとユーモラスなおじさんの設定にするか
・名前を明かさないという構成をやめるか
の3択で考え中です。
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いま、書かなきゃいけない記事を3つ抱えています。
・乃木坂46の楽曲を一日一曲語る。54日目『僕が行かなきゃ誰が行くんだ?』
・制作日記No.12〈『映画 えんとつ町のプペル』を観て〉
・制作日記No.13〈『トラペジウム』を読んで〉
余計なことやってないで小説を書けよと思われるかもしれませんが、僕の中では全部がつながっていて、24時間矢印は常に小説に向かっています。
▼コチラで作業風景を配信しています
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では、また後ほどお会いしましょう。
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