松村沙友理篇 制作日記No.9〈『推し、燃ゆ』から得たもの〉
2021年2月9日(火)
お疲れ様です。ご無沙汰しております。
現在制作中の小説『振り向けば青春~あの後の彼女たち~』を書き上げるために、今は一流の作品にたくさん触れて勉強しています。
そんなこんなで、第164回芥川賞を受賞した宇佐美りんさんの『推し、燃ゆ』を読みました。
今回はシンプルに読者として読んだ感想と、小説を書こうとしている人間として考えたことの両方を語らせていただきます。
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▼感想
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主人公のあかりが自分と重なる部分があって、宇佐美りんさんの大胆かつ芯を捉えた心理描写と相まって非常に共感出来る作品でした。
特に印象に残ったのは2つです。
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①ピーターパンのDVDを見るシーン
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主人公のあかりが幼い頃に見た劇のDVDを発見し、それを見て上野真幸くんと再開するシーンが物語序盤にあるのですが、このあかりの「推し活」のはじまりを描いたシーンがもう鳥肌モンに鮮やかです。
あの「痛み」は僕にもあったし、きっとアイドルを推している多くの人が経験あるものだと思います。
描写の美しさに圧倒されました。
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②終盤の1文
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アイドルをやめた真幸くんの自宅がネット民に特定され、あかりがそのマンションの近くまで行ってしまうシーンがあります。
しかし、そこであかりは気づいてしまうのです。↓
この1文にものすごい凝縮されているなぁと感じました。とても共感できます。
『アイドルを解釈する』とか『推しは人になった』という言葉は、
「“中の人間”と“外の人間”との間には、決して越えられない壁があるなぁ」という僕の考えと通ずるところがあります。
だから共感だけじゃなくて、世界のどこかで僕と同じように感じている人がいると教えてもらった気がして嬉しかったです。
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▼小説を書く人間として
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ここからは小説を書く人間としてのお話です。
『推し、燃ゆ』を読んで気づいたこと、というか松村沙友理篇の第一稿を書いている時に感じた疑問の答えらしきものを見つけました。
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①小説の主観にどれくらい感性を与えるか?
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主観的小説の主観が鮮やかな風景描写や繊細な心理描写を繰り出すことに真実味はあるのか疑問に思っていました。
「目の前の世界についていちいちそんなに表現できる人間は現実にはいないだろ」というツッコミが、読者の感情移入の妨げになってしまうのではないかということです。
しかし、『推し、燃ゆ』は上記のような主観的小説でありながら結構すんなり読めました。
小説という表現形態においてはごく自然に受け入れられるみたいです。
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②時制と意識はどこにあるのか?
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以前読んだサルトルの『嘔吐』は主人公の日記という形式で、時制は全て過去形でした。
一方で、『推し、燃ゆ』は過去形と現在形が入り混じった文章です。
コレについて、以下のような仮説を立てました。
モノローグは主観が自己を客観視して述べるものだから、「それを意識したタイミング」と「それを述べるタイミング」の間に時差が生まれます。
一方で、“意識の言語化”は必ずしも主観によって行われるわけではありません。
主観と「すべてを見通す神様的な視点」の中間といった感じですね。
ゆえに、意識したものを時差なしで現在形で表現しても気持ち悪くならないということです。
この「時制と意識の問題」はまだまだ奥が深そうなので、この先読む小説でも分析してみます。
(みんなはあんまり気にならないで読めているんだろうか)
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ちなみに昨日は『トラペジウム』を読んでいました。
前々から読もうと思っていたのですが、図書館で予約して受け取った日がたまたま高山一実さんの誕生日でした。笑
『トラペジウム』についても後ほど記事にします。
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では、また後ほどお会いしましょう。
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