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『四畳半神話大系』と『FARCEに就て』

はじめに

筆者が『四畳半神話大系』の読書感想文をどういった切り口で書くか悩んでいた折、たまたま坂口安吾の『堕落論・日本文化私観 他二十二篇』を手にとった。その中の『FARCEについて』という一篇が件の小説とただならぬ連関があると直感したときはついつい「これだ!」と叫んだか叫ばなかったか定かではないが、兎にも角にもそこに一筋の光を見出して斯くの如く筆を執った次第である。拙筆ながらしばしお付き合い願いたい。

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まずは『四畳半神話大系』のあらすじをKADOKAWAの記事から引用したものをご覧いただきたい。

妄想してないで、とっとと恋路を走りやがれ!
私は冴えない大学3回生。バラ色のキャンパスライフを想像していたのに、現実はほど遠い。できれば1回生に戻ってやり直したい! 4つの並行世界で繰り広げられる、おかしくもほろ苦い青春ストーリー。

引用元:https://note.com/kadobun_note/n/naa95194e7327

なんと的確でおもしろみのないあらすじであろう。だが、あらすじとは本来そういうものだろうから文句はない。

なるほどこのあらすじから想像される本書の魅力は、「青春ストーリー」×「4つの並行世界」という設定の妙といったところ。しかし、結論から言えば、筆者が本書に魅了された所以はその設定の妙ではなく、本書が坂口安吾の言う道化(ファルス)の文学だからなのである。


“並行世界”の演出 ―小説版とアニメ版の比較―

『四畳半神話大系』は2010年にアニメ化されているのだが、アニメ版は作品全体の印象や設定を損なわないよう配慮しつつ、小説版の各話のエピソードやパーツを組み替えて10パターンの“並行世界”にまとめ直されている。それに加えて、小説版とアニメ版では“並行世界”の演出が微妙に異なっているのである。

・小説版

4つの“並行世界”でそれぞれ別の団体に属した〈私〉。しかし同回生の〈小津〉や、〈私〉と同じ下鴨幽水荘に住む〈樋口〉などの人間に巻き込まれて結局どの世界線でも不毛で愚行な2年間を送る。もし入学当初にあの運命の時計台(分岐の始点)で別の団体を選んでいればと後悔する〈私〉だったが、いずれも最後は〈明石〉さんとの恋愛が成就して終わる。

4話目で「福猫飯店」という秘密機関に入った〈私〉はある日、玄関の戸を開けても窓を開けても四畳半の自室が無限に連なる奇妙な世界から抜け出せなくなってしまう。そんな四畳半世界を探検する中で〈私〉は、それぞれの部屋が微妙に異なった特徴を有していることに気づく。それはいわば過去の無数の選択によって分岐した∞通りの“並行世界”だったのである。

・アニメ版

大枠は小説版と同じなのだが、大きく異なる点がある。アニメ版の10話,11話では、〈私〉がいかなる団体にも属さず2年間のほとんどを四畳半の自室で過ごすという世界線が描かれ、無限の四畳半世界に迷い込むのもこの世界線の〈私〉である。

9話までの各世界線の〈私〉は、「もしあの運命の時計台で他の団体を選んでいたら、〈小津〉などという人間と関わることもなく薔薇色のキャンパスライフを謳歌していたに違いない」と過去の選択を悔やむのだが、翻っていかなる団体にも属さず〈小津〉や〈樋口〉と知り合わなかった世界線の〈私〉は、四畳半世界を横断しながら「何かしらの団体に属して〈小津〉という人間と友達になった“並行世界”の〈私〉はなんと楽しそうなのだろう」と空費した2年間を後悔するのである。

この9話までの各世界線の物語をフリにして、終盤で視点を180度転回させる構成が見事である。“並行世界”の設定を生かした構成の気持ちよさで言えば、アニメ版に軍配が上がるだろう。

小説版の“並行世界”の設定はあくまでちょっとした遊び心のようなもので、本書の最大の魅力はもっと別にある。さていよいよ皆さんお待ちかね、坂口安吾先生の出番である。

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道化(ファルス)の文学

安吾はまず、悲劇(トラジェディ)、喜劇(コメディ)、道化(ファルス)という文学の3つの形式を便宜上それぞれ以下のように定義づける。

・悲劇(トラジェディ)・・・大方の真面目な文学

・喜劇(コメディ)・・・寓意や涙の裏打ちによってその思いありげな裏側によって人を打つところの笑劇、小説

・道化(ファルス)・・・乱痴気騒ぎに終始するところの文学

安吾に言わせれば悲劇喜劇と同様に道化もまた高い精神から生み出されるものであるのだが、すべての時代において道化はどうにも内容の低いものとされ不遇な扱いを受けてきたようだ。

確かに言われてみれば、昨今の映画や小説、漫画のほとんどが「笑いあり、涙あり」を謳ったものか、もっと真面目なテーマを扱うものかのどちらかに分類され、道化(ファルス)の精神は落語や狂言などの伝統芸能にわずかに生き残っているのみであるように思われる。

ところが『四畳半神話大系』が上記のどれに類するかと言うと、驚くなかれ、道化(ファルス)の文学なのである。と、断言はできないが、『FARCEについて』というエッセイの中に何箇所か、まるで『四畳半神話大系』の説明をしているかのような記述があるのだ。

ここまでは紛れもなく現実であるが、ここから先へ一歩を踏み出せば本当の「意味無し(ナンセンス)」になるという、斯様な、喜びや悲しみや歎(なげ)きや夢や嚔(くしゃみ)やムニャムニャやあらゆる物の混沌の、あらゆる物の矛盾の、それら全ての最頂点(パラロキシミテ)に於いて、羽目を外して乱痴気騒ぎを演ずるところの愛すべき怪物が、愛すべき王様が、即ち紛れなくファルスである。
ファルスとは、人間の全てを、全的に、一つ残さず肯定しようとするものである。およそ人間の現実に関する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、怒りであれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニャムニャであれ、何から何まで肯定しようとするものである。ファルスとは、否定をも肯定し、肯定をも肯定し、さらに又肯定し、結局人間に関する限りの全てを永遠に永劫に水久に背定肯定肯定して止むまいとするものである。 【中略】つまり全的に人間存在を肯定しようとすることは、結局、途方もない混沌を、 途方もない矛盾の玉を、グイとばかりに呑みほすことになるのだが、しかし決して矛盾を解決することにはならない、人間ありのままの混沌を永遠に肯定しつづけて止まない所の根気の程を、呆れ果てたる根気の程を、 白熱し、一人熱狂して持ちつづけるだけのことである。
例えばファルスの人物は、概ね「拙者は偉い」とか「拙者はあのこに惚れられている」なぞと自惚れている。そのくせ結局、偉くもなければ智者でもなく惚れられてもいない。ファルスの作者というものは、作中の人物を一列一体の例外無しに散々な目に会わすのが大好きで、自惚れる奴自憶れない奴に拘りなく、 一人として偉いが偉いで、智者が智者で、終る奴はいないのである。あいつよりこいつの方が少しは悧巧(りこう)であろうという、 その多少の標準でさえ、ファルスは決して読者に示そうとはしないものだ。もっとも、あいつは馬鹿であるなぞとファルスは決して言いはしないが。

(出典:坂口安吾『堕落論・日本文化私観 他二十二篇』ただし表記を一部改変、岩波書店、2008年)

「自転車整理軍」やら「図書館警察」やら、まったくもってふざけているが、まあ、そんな物があっても不思議ではないのかもと一瞬思わせてしまうような、一歩踏み外せば「意味無し」に落ちてしまうギリギリで描かれるドンチャン騒ぎ。登場人物の全員が良いも悪いも敵も味方も入り乱れたいろいろな要素を持った一人の人間として一つ残らず肯定され、喜びや悲しみや笑いや涙はただ混沌のイチ構成要素として飲み込まれた世界。これこそ『四畳半神話大系』の魅力である。


おわりに

「笑いあり、涙あり」を謳う作品に胃もたれしている方々には特に、『四畳半神話大系』という世にも奇妙な道化(ファルス)の文学を読んでいただきたい。

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