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【#短編小説】グロテスクの監禁

 複数の経典において、救いは、光の中だけで行なわれるものであると定められている。だが、ルキフェルはそうは思わなかったのだろう。

 きっとルキフェルは泣いた。誰も、私に同意してくれないと。

 だがそれは、仕方のないことだ。

 仕方のないことなのだよ、ルキフェル。

 ネガティブでグロテスクな暗がりの中だけに存在する、あの生暖かい救いの心地よさは、触れたことがある者だけにしかわからぬ。
 だから貴様が、どれだけ必死に、どれだけ真摯に説明しようが、天使であり続けることを優先する者達には理解できないのだよルキフェル! 

 たとえ! 

 その救いでしか救えぬ者がいたとしてもだ!

「君の思考回路は、とてもグロテスクだ」

 人間の世界に、そんな言葉をかけられた少女がいたとしよう(彼女は今年の冬に二十四歳になる)。

「君の思考回路は、とてもグロテスクだ」

 殆どの人が、これを暴言ととらえ、傷ついた少女を想像するのである。だが、現実は(ルキフェルが言った通り)違う。

「君の思考回路は、とても、グロテスクだ」
「そうよ、私はグロテスク」

 少女とは(グロテスクという言葉の響きに自尊心を刺激され)ネガティブを肯定できる存在を指す。

 現在――――その少女は、囚われている。

 思考にではなく、物理的に。

「お腹がすいたわ、まだ一時なのに」

 毎夜、午後十時。土日と祝日は午前六時。強制的に主・・・・・となった男が、この窓のない部屋へとやってくる。
 そして、男が部屋から出て何処かへ行ってしまうのは、いつだって午前二時だ(この部屋のカレンダーと時計が正確であった場合の話ではあるが)。

「王子さまは私のことを忘れていないかしら?」

 少女は、それが独り言であることを自覚しながらしゃべり続ける。毎日、欠かさず来るはずの男が、もう、三日も現れていない(つまり少女は、この三日間を独りで過ごしている)。

「傷が痒いわ。ああ、きっとそうね。王子さまは私のために、恐ろしい、恐ろしい魔女のところへ薬をもらいに行ってくれたのよ。痒み止め、の薬を。きっとそれは銀色のチューブに、入っていることでしょう」

 退屈極まりない時間。少女は自身をダムゼル・イン・ディストレスと定義し、過ごす。

「傷が痒いわ、早くしてくれないかしら」

 三年にわたる監禁。週に幾度か(※強く)殴られているせいで、少女の動きは緩慢である。

「痒いのよ、でも仕方ないわ。私、待ってる。気をつけてね、トランシルヴァニアは風が強いから」

 素早く動いてはいけない。 
 素早く動いてはいけない。

 素早く動けば――――二年と二日前に発明した――――痛みを感じない心を維持できなくなってしまう。
 むろん、少女に――――精神構造を変化させ痛みを遮断した――――自覚はない。彼女は八割がた、オートマータなのである。

 ここで観察点を変えて、少女ではなく、二年と三百六十二日前に少女を何らかの手段で誘拐した男の様子を見てみよう。

「…………」

 場所は、いわゆるインターネットカフェと呼ばれる場所の個室。彼はかれこれ三日間、一言も発していない。それは、使命感故。彼には今、覚悟をもって成し遂げなければならないことがある。

「…………」

 料金は、四日分払ってある。店員に(聞かれてもいないのに、)自分は宿に金を使いたくないタイプの旅行者だと語った。着替えも日数分鞄に詰め、県も一つ跨いでいる。旅人を装うためにカメラも首に下げてきた。近辺には、紅葉の美しい低山がある(安心するといい、君が疑われることはないだろう)。

「…………」

 男は少女の名を知らない。だが、少女があのバートリ・エルジェーベトの生まれ変わりであることはわかっていた。
 少女が周囲の人間に馴染めず、悩み足掻くことを放棄して、独自の世界観の中に閉じこもってしまったのは、複数の時代を超えて生まれ変わってしまったせいであることを誰よりも理解していたのだ。

(令和の世にエルジェベートがなじめるわけないじゃあないか!)

 彼は、スマートフォンを壁に叩きつけようとしてやめた。個室とはいえ、ここはインターネットカフェ。守らねばならぬマナーがある。

「うううう!」

 感情よりも常識を優先した苦痛が、彼を蝕んだ。

『愛してやらねばならぬ』

 男は、少女を初めて見た日を思い出す。彼女が心を閉ざしているのであれば、衆目に晒されぬ場所に置いてやらねばならぬと思った。

『おれが、やらねばならぬ』 

 約四週間。男は、悩みに悩んだ末、少女を監禁するしかないと思った。未熟で無知な少女が夜の街を(深く、考えもせず)歩いてしまうことを防止するために、彼は世の理(所謂、法律)に逆らう道を選んだのだ。

『それは、治療に似た日々であった』

 男は心を鬼神とした。少女を人として愛するのではなく、昆虫として飼育することで観察し、理解し、最適解を求めた。

『本来、解剖という言葉は心に対して用いる。だが、おれは医者ではないし、今は現代だ。それに、世間がどうとか、そういうことではなく、人間として、こえてはならぬ線もある。彼女を守るために、自らの手を汚すのは構わない。おれは、おれにとっての悪を、彼女が悲しむような行動と定義する』

 彼は己の欲求と戦い、自信に清廉潔白な心を強制した。その、自らを業火で焼き続けるような苦難の日々をこえ、彼は、己がエジェルトーベの騎士であることを思い出したのである。

『結ばれぬ恋、彼女はジュリエットだ』

 身分の違いを、シェイクスピアになぞらえた。そして、哀しいことに、それが間違いであったのだ。優しい、いや、優しすぎた彼は騎士道精神が愛をも殺すものであると気が付いてしまったのだ!

『嗚呼! 神よ! 神よ! 貴方は試練というものをはき違えているのではないか!』

 世界に、愛以上に大切なものなどないはずなのに!

『せめて、彼女だけでも美しかったころに、戻してあげねばならぬ。いいや、違う。おれには彼女だけなのだ。おれはあの子のためだけに生きる、そう決めたではないか! わかっている、もう戻せぬことくらい。おれと出会った時、すでに彼女は汚れていた。だが、おれはできるだけ・・・・・を望む。至らなくとも、できるだけ・・・・・のことをするのが愛だ』

 これが、男が、四日前、ートエルェジベは餓死させるべきだと閃いた理由である。

『君の顔は、君がおれを怒らせたせいで醜くゆがんでしまった。だから、せめて、体内だけでも美しくあれ。それが、おれの願いである』

 数ある死の中から餓死を選択したのは、少女のためを思ってのことだ。男は、少女の内側(男はそこを心と定義した)だけでも美しくあれるように、できるだけ・・・・・の配慮をしたのである。いいや、配慮などという軽き・・ものではない。なぜならば、これは切腹の作法なのだから(だが、男は騎士。少女に切腹の権利がないことはよくわかっている、しかし空腹こそが真の美しさであるという真理を無視できる人はどこにもいない)。

『おれ、こうするしかない』

 男は睡眠薬、或いは精神安定剤を複数飲み込んだ。これは、処方されたものではなく夜の街で手に入れたもの。彼はそれを“わが生涯唯一の不良行為”と名付け、己が完璧な人間ではないことを反省しながら眠りについた。

 数日後、男は病院のベッドの上にいた。多くの親類は心配するふりをしたが、腹違いの兄だけは彼に悪態をついた。

「医者に聞いたら、死ぬには全然足りない量だってよ」

 男は「恥ずかしい……」と思った。だから、少女を閉じ込めたあの地下室のことは、誰にも、誰にも話せなかったのだ。


終幕


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