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くそみたいなはなし

今のところ思考を吐き捨てるのに手頃なので利用しているが、いちいち「創作が継続していてすごい!」みたいなメッセージをぶん投げてくるのが心の底から鬱陶しい。
お願いします。お黙りください。お願いいたします。
毎回毎回毎日毎日ストレスを感じるのでnoteより合う場所を探したいなとも思う。

一番楽なのはそれこそパソコンなりスマホなりのメモ帳に書くこと。
でもそれは整理整頓が難しく、管理が嫌になって処分してしまう。継続が難しい。
整理整頓は、たぶん好きだ。捨てるという行為も。だから継続できないと整理整頓も処分もできなくてしんどい。
どこかに書かなければ。作らないと破壊できない。

Pixivや小説投稿サイトを使うのは気が引ける。ブログも違う。
利用経験があるせいで自分の中に認識ができており「このカテゴリじゃない」と感じてしまう。
そういう点でまったく触れてこなかったnoteはちょうどよかったんだが。

創作創作うるせえ、執筆なんかしてねえんだ。げろげろ吐いとるだけや。
耐え難い大きな苦痛じゃなくて、必中の小ダメージを与えてくるのがマジで鬱陶しい。
注文しちゃったから仕方なく食べるけど量が多いし案の定まずかった料理をやっと胃の中に捨てたら「排泄物を生産してすごい!」とか意味分からん褒め方されてイラつく感じだ。
相手は褒めてるのだから悪感情で反応するほうが間違ってることになる、あの感じ。「生きてて偉い」への嫌悪に似ている。

褒められるのが嫌なのも根本的に全部そうなのかもしれない。
私にとっては過程から結果が発生したという事実があるだけで、それを良いものと断定されるのが腑に落ちなくて気持ち悪い。
なんでもかんでも褒めるな。褒められたい人を褒めろ。

料理や食事の話は喜んでするのに排泄物に関しては「汚い、人を選ぶ話」で「注意書きがあるのが望ましい」んだよな。
堂々と生きるくせに周囲を窺いながらおそるおそる死ぬのと似ている。
まあね、嫌なもんは嫌だし、多数の嫌がるもんは排除するのよ。当たり前なんだよ。
私が多数側に行きたくないのと同様に向こうも少数側を受け入れることはできないし、でも同じところにいる以上はどっちかが負けるのよ。
弱いほうが負けんのよ。我々は弱いのよ。
弱さを盾にする強さもない弱者なので踏みにじられるために生きてる。

なんか食ってるときにうんこの話すれば嫌がられる。「今そういう話すんな」と言われる。
生きてるときに死の話をされたくないというのもべつに自然な感覚だろう。
私にとって生きるのはうんこすることだし、死ぬのはうんこすることだけど、生きるのは食べることだと感じる人もいて、だからうんこの話はしたがらない。
平行線になるのは仕方がない。したがらないとしかたがないは似ている。
諦めてるが、こちらとて嫌なもんは嫌なので文句を言い続ける。

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