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日本語を学ぶ人に多大なストレスを与える文字に「日」がある。(「生」もあるが日のほうが積極的に包囲戦をしかけてくる)
「今日は六月一日の日曜日。明日は振替休日です。雨続きの日本、三日ぶりによい日和となりました」こういうやつ。
これをすらすら読める日本人がすごいという話ではありません。そういう話は掃いて捨てるほどたくさんあるので今さら言うことはありません。

こんな言語を使ってるから日本人ってこんななんだな。こんな人種だからこんな言語になったんだな。
って漠然と思った。
すごいのか、これが読めるの。すごくないだろ。逆に馬鹿だろ。こんな言語を使い続けていること自体が。馬鹿だろ。

くだらない自己防衛として差し挟むが、馬鹿なことが悪いと言いたいわけではない。
「今日」を「きょう」と読む。それは「日」を「う」と読むのではなく「今日」で「きょう」だ。
「こんにち」とも読む。「きょう」と「こんにち」はニュアンスが違う。違うが、同じ意味もある。
「今日は」は「きょうは」かもしれず「こんにちは」かもしれず、挨拶の「こんにちは」と「今日は」は違う。
「今日」と「本日」は使い分ける必要性が限りなくゼロに近い、意味は同じだ。
狂ってる。馬鹿が作った馬鹿な言語。日本語を読むのは楽しいが、考えるために考えるみたいな馬鹿げたことをしていると感じる。

歴史の中でもっとスマートにもできたはずなのに、よりややこしく、より難解に。自らそういう成長をしてきた。
そりゃ根性論や努力の押しつけが蔓延る。そういう民族なんだもの。
すぐ人の顔色を窺う、神経質、繊細、過敏な性質。
誰も頼んでないのに気を使う。
がんばることが当たり前だから。
だって【言葉】という重要なコミュニケーションツールを扱うことさえ【がんばって】きたんだから。
あるいは意識してがんばることなく日本語を話しているくらいだから【どんなことだってがんばれる】のだ。

べつに日本語が世界の中でも特に難解な言語ってわけじゃない。
どの国にも難しい言葉はある。
ただ「なんで一つの漢字にこんなたくさん読みがあるんだよ」という真っ当な不満に対して「確かに。もっと改善して楽に話せるようにしたい」ではなく「こんな面倒を乗り越えてる日本人すごい」になるのが。
苦労をしたがる。楽になるのを嫌がる。

小学生のとき、自然観察クラブ?みたいなのに入ってたらしく(詳しいことを覚えてないがうっすら記憶にある)、フィールドワークの前に教室で教科書を音読してた。
私はなんでか知らんが「水面」を「みなも」と言った。たぶん直近で何かしらの本を読んでいて、雰囲気で引っ張られたんだと思う。
教師は「いい読み方を知ってる」と言った。純粋に褒めたんだろう。私は羞恥で死にそうだった。
そもそも褒められるのが苦手だというのはさておき。無意識に口から「みなも」と出たのが、とんでもなく恥ずかしかった。
文面を見て読むなら「すいめん」だった。
要するに、教師は褒めたが、私にとっては【水面という単純な言葉を堂々と読み間違えた】だけだった。

「すいめん」と「みなも」の違いによって表現力は豊かになる。
日本人として生まれてしまったら、ごく当たり前に、意識することすらなく、その豊かな表現力を身につける言語能力を求められるということだ。

日本語が嫌いだとも醜いとも思ってない。ただ歪だと。馬鹿だと。事実を事実としてそう思うだけ。
自分で自分を追いつめる性格が言語にもあらわれてるって感じた話。

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