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一那由他分の一違う

とあるSNSの自己紹介欄でやたらとアルファベット4字の組み合わせを見かけて辟易する。たぶん何かしらの心理テストの結果だと思う。
問診票に書き込んで各項目の得点などを計算し「あなたは〇〇タイプで、こういう性格。有名人の〇〇も同じだよ」ってラベリングするやつ。
その大昔に死んだ有名人にも同じ質問したんか?

何の意図があるのだろう。何もないなら書かなくていいのだからあれは他人に対して何かを求めている記号なわけで。
べつにラベリング自体を否定する気はない。私だって型番で十把一絡げに管理されるネジになりたいと思っている。真に自意識を剥奪されたい。人間でいるよりはマシだから。
でも主にネットで見かけるあのひとたちは私と違う目的でラベリングしてる気がする。だってあのひとたちは自意識が強すぎる。
「私は〇〇なのであなたは私にこのように接するのが正しい」
むしろ自意識を発信するためにラベリングしている。

今の流行りで言うとADHDやらHSPやら、もはや古典になってきた鬱やら、LGBT(さらに追加コンテンツが続々と出てるらしい)やら。
「〇〇なので生きづらい」「〇〇なので理解されない」「〇〇は苦しい」
「障害のない人には分からない」
こういう自分のラベルをふりかざして他人に健常者(あるいは強者、マジョリティ)のラベルを貼って貶めるやつとは関わりたくない。

実際のところ「私は苦しい」それだけだ。〇〇を武器にするのは私にとって不愉快極まりない行為だ。

今ある苦しみの要因としてラベルを提示するまでは納得できる。でも「あなたはこのラベルを持っていない(持っている)から苦しくないでしょう」までいくと反吐が出る。
おまえだって相手の苦しみにほんの僅かな理解さえ示そうとしないくせに、わたしの苦しみはあらゆる人が理解してやさしく接するべき、って。

性質や性格や性別がグラデーションだとかいって多様性を謳いながらラベルが多様化していくだけなのが片腹痛い。
空に針さして「こことここは色が違います」と言う。そりゃ確かに違うけれども、だから何なの?
違うことを認識できていればそれで終わりだ。
ラベリングは自己分析の助けになるかもしれない、が、あくまでも自己分析で終わりだ。
終わりにせず馬鹿みたいに小さなラベルを共通認識にまで広げようとして、どこまで細分化するつもりなんだ? 現実見えてるか?
自分でグラデーションつってるのに自らラベリングしたがるのは何なの。人間一人一人の図鑑でも作りたいのか。多様性を理解するために?

ラベリングの目的は効率化することだ。糞を入れる器で飯を炊かないために区別する。それだけ。
必要なときに明確な事実を簡略的に伝えるため、細かいことはさておいてラベリングする。それだけ。
言うなれば「個性の尊重」とは対極にある。にもかかわらず「ラベル」を「個性」として扱うひとに、とてつもない違和感と嫌悪がある。

とある場所でとあるテーマについて話す機会があって「私はHSPなので特に大変で…」と言い出したものがあった。ああこいつとは会話が成立しないと感じた。
前述のメンヘラ動物園SNSにも多い。HSPが具体的にどういう症状を指してるのか知らないが、聞いてもないのに「私はHSP」を過剰に主張してくるのは一昔前に流行った繊細ヤクザと同じ匂いがする。
精神病だったりなんとかセクシャルだったり同じラベルを持ってるひとたちは、まったく同じことにまったく同じ苦痛を感じて、どんな刺激にもまったく同じ感覚を得るの?

自分の性質をラベルに集約して教科書を作ってその通りに接してもらえば気が済むのか?
あなたは〇〇型の人だからこういう風に接しますね。
それで心地よいコミュニケーションが生まれるという考えなの?

私は嫌だ。型番で管理されるネジになれたらいいが、残念ながら私は今も人間なのでそのときどきで変わる。
話せるときと話しかけられたくないときがあるし、関わってこられたくないことがほとんどだし。鬱病と診断されているが教科書通りに「病院に行く」のは私にとって症状を悪化させる行為だし。
私の気分の移り変わりを完全に把握して適切な対応を、なんて他人に求めるのは馬鹿げてる。自分でさえ自分を持て余すのにそんなものは他人に求めない。
傷つけられたら傷つき、癒されたら癒される。それで終わる。
「他人が鬱病を分かってくれない」んじゃなくて「私が他人を分からないように他人も私を分からない」だけだ。もっと言うなら鬱病が理解されたところで鬱病は私ではないからどうでもいい。

個性個性と騒ぐわりに、目の前にいる人を見てそのときどきで対処する、というシンプルな結論に辿り着かないのが不思議でならない。

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