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ゼロベースでビジョンを描く!大前研一氏からいただいたもの!

■ゼロベースでビジョンを描く
「何をやりたいんだ!やりたいことは存分にやれ!」
一新塾塾長であった大前研一さんから、私が徹底的に叩き込まれたこと。それは、ゼロベースでビジョンを描くということでした。

大前さんのものごとへの取り組み姿勢を間近で見ることで、ハッとしたことがあります。それは、分析よりビジョンが先なのです。

それまでの私は、新しい提案をするのに、まず状況をじっくり分析した上で、これだったら実現できそうだということでビジョンを描いていました。ところが、この方法に頼っていては、自由に伸び伸びと理想ビジョンを描くことができません。

大前さんは、これまでの常識は一旦横に置いて、しがらみにまみれることなく、「こうしたい、こうなって欲しい」と、まず最初に、ゼロベースで伸び伸びと突き抜けたわくわくするビジョンを描くのです。そして、ビジョン実現を阻むハードルを乗り超えるためにこそ、分析のスキルを駆使するのです。

■オールクリア
このような姿勢で、嬉々として日本変革に挑み、自らの人生を事あるごとにオールクリアし続けている大前さんの志を生きる姿に一人の人間の計りしれない可能性の大きさを実感させていただきました。

私が大前さんの生き方で最も感動したのは、コンサルタントとして世界の頂点を極めながら、そのプライドを横に置いて、ビジョン実現のために愚直なまでにまっすぐ突き進み、一市民として身を投じてチャレンジに挑まれたその姿勢です。

大前さんをこうした挑戦に向かわせたのは、熱心にボランティア活動を続けてきた夫人のジニーさんからの一言でした。

「あなたは、お金儲けとお金儲けをする人の手伝いばかりしてきて、社会に対して何をやってきたのですか?あなたの人生に社会性はありますか?」。

この一言が、大前さんの人生を転換させるトリガーとなりました。プライドも財産もすべてを投げ打って、一市民として改革に向かうことになりました。

■執筆で社会変革に挑む
「何か自分が社会に対してできることはないか?」
ビジネス書は何冊も書いていたので本を書くことならできると思い立ち、今度は社会啓発の本として『世界の見方、考え方』、『新国富論』、『平成維新』を続々と出し始めます。どれも三〇万部以上の大ベストセラーとなりましたが、本を書くだけでは、結果的には日本は全く変わりませんでした。

そこで執筆活動だけではダメだと結論し、大前さんは1992年、政策提言型市民運動「平成維新の会」を旗揚げします。ゼロベースで新たな国家運営システムを創り、日本を「生活者主権の国」に生まれ変わらせることを目指し、新しい地方自治・道州制への移行を促しました。

■市民運動を旗揚げ
ビジネスマン、経営者、シニア層、主婦、学生など、これまで政治や市民運動に縁のなかった普通の市民が続々と新しい国づくりの運動に参加したことが新しい時代の到来を予感させました。このムーブメントの原動力は、まさに、「自分も新しい国づくりに参加できるんだ!」
との目覚めではなかったかと思います。

そして、会社は儲かっても生活者としては豊かさを全く実感できないなどの声を集約して、その問題解決として議員立法を目指し、「平成維新のための法案デッサン」(83法案)を作成しました。

1993年7月、衆議院議員を目指す350人の面談から108人の推薦を立て、82人を推薦議員として国会に送りだしました。そして、「平成維新のための法案デッサン」を彼らに託し、議員立法実現へ向けて活動を展開。しかし、党利党略の中で、生活者の声が国会の場に反映されることは少なく、結局、議員立法は一つも実現しませんでした。

多くの政治家が支持母体に拘束されて信念が貫けなくなっているのを見て、自らが政治の世界に入ることを決意します。そして、都知事選、参院選に挑戦しますが落選。

■一新塾創設
「書いてダメ」、「人を送り出してダメ」、「自ら飛び込んでダメ」。これらの経験から導き出された答えは“急がば回れ”でした。大前さんは「今の政治では自力でその混迷から抜け出すことはできない。

その時に大きく舵取りのできる強い組織をつくっておく、受け皿をつくっておくことが必要なのである」と健全な市民運動育成に目を向けました。そして、ゼロベースからの改革は、しがらみのない主体的な市民の目覚めによってこそ可能と考え、一新塾を創設し、啓発された市民の育成に情熱を注ぐこととなりました。平成維新の会は、1995年に解散となりましたが、その理念を一新塾が引き継ぐこととなりました。

この一新塾には、現場主義でPlan→Do→Seeを回し続け、何度となくビジョンを掲げなおしてはチャレンジを繰り返し、道を切り拓いてきた大前さんの姿勢が、風土として根づいています。

■主義主張を越えた議論の場
そして、開塾にあたっては、次のように、場の方針軸を打ち立てていただきました。

「私はこの『一新塾』を政治家養成塾でなく、新しい日本を創り出すネクストリーダーを養成するための塾と位置づけるために、第一期のテーマを、『平成維新の会』が掲げる改革ビジョンである『道州制実現への戦略』とした。そして平成維新のコンセプトであるゼロベースからの改革を担う、主体的な市民をつくりだすためにも、民主主義の基本である“主義主張を越えた議論”を交わすことをモットーとしたのである。その意味でも、講師、塾生も含めて、私の主張に真っ向から反対する者も大いに歓迎した。

このような私塾は、ともすると思想、主義主張が似かよった生徒を集めてしまいがちである。主宰する側にとってはこの方が楽なのであろうが、これでは真に、自らの主義主張を公の場で戦わせることのできる人材は育たない。

『一新塾』は、生活者主権の国家をつくりだす市民を育てるための塾であり、決して『大前塾』ではない。だから、大前研一が大嫌いでも、おおいに結構であるし、この方針は二期以降も堅く守っていく方針である。」

★NPO法人一新塾(社会起業・政策学校)

【大前研一(一新塾創設者)プロフィール】
1943年、福岡県に生まれる。早稲田大学理工学部卒業後、東京工業大学大学院原子核工学科で修士号を、マサチューセッツ工科大学大学院原子力工学科で博士号を取得。(株)日立製作所原子力開発部技師を経て、
1972年、マッキンゼー・アンド・カンパニー・インク入社。 以来ディレクター、日本支社長、アジア太平洋地区会長を務める。
1992年11月には政策市民集団「平成維新の会」を設立、代表に就任。
1994年7月、20年以上勤めたマッキンゼー・アンド・カンパニー・インクを退職。
1994年、国民の間に議論の場を作るとともに、人材発掘・育成の場として「一新塾」を設立し、2002年9月まで塾長として就任。
2005年、日本初の遠隔教育による経営大学院「ビジネス・ブレークスルー(BBT)大学院大学」を設立し、学長に就任。
2010年には、学部課程の「BBT大学」も開校。日本の将来を担う人材の育成に力を注いでいる。経営コンサルタントとしても各国で活躍しながら、日本の疲弊した政治システムの改革と真の生活者主権の国家実現のために、新しい提案・コンセプトを提供し続けている。 経営や経済に関する多くの著書が世界各地で読まれている。

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