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灰燼の都より

   ■

 夢にしては餘りに現實である。

現實にしては餘りに夢である。大

正十二年九月一日の関東震火災に

ついて、自分はこの言葉のほか知

らない。

   ■

 無限大の力を持つてゐる自然界

の現象に向つて、こんな愚痴を云

つても仕方がないが、わづか五十

年か六十年しか生きることを許さ

れない人間の一生をあんな風に苦

しめなくともいゝではないかと云

ひたくなる。樂しめるだけ自由に

樂しませてくれたら、たとへ人生

は如何に短かくともどんなに幸福

なことだらう。ありし日の東京が

懐しい――自分は九段坂の上に立

つて、よく晴れた日には、はるか

の海まで見はるかされるほどの燒

野原と變つた市街をみるたびに、

そゞろ今昔の感にうたれざるを得

ない。淚ぐましいほどの愛情が、

すべての街々の昔の味ひを、まざ

/″\と思ひださせるのである。淺

草――銀座――神田――いかに人

々が骨を折つたにしたところが、

もうもとの面影や匂ひはつくり出

されまい。それが淋しい。

 今、東京は新らしい市街の創造

に力の限りをつくしてゐる。自分

にやうに昔日の影に淚を垂れるの

は意氣地なしに思はれるだらう。

併し、東京復興を叫ぶ人も、昔の

東京に或る執著を持つてゐればこ

そ、より美しいものを創り出さう

とする元氣も出るのだらう。「われ

/\は東京によつて育れてきた。

何んでそれが見捨てられやうか。

われ/\は今迄にかなり享樂して

きた。だからこれからは力の限り

働らくつもりだ」といふ久米正雄

氏の言葉のうちに、自分の上述の

心持を裏書きするものがあるのを

見逃すことは出來ないであらう。


(越後タイムス 大正十二年十月七日 
     第六百十九號 三面 より)


#関東大震災 #大正時代 #東京 #久米正雄




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