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無政府主義の幼蟲(上)

「一寸お待ち下さい。」

「僕ですか?」

「さうです。」

「何の御用です。」

「あなたは今、大杉榮さんの家へ

行かれましたネ。」

「行きました。」

「それについて、一寸私のお尋ね

に答へて下さい。あなたは、あの家

の誰かと知己しりあひでもおありなんです

か?」

「いや、知己なんかありません。

僕は大杉榮氏に會ひたくて、今日

始めて行つたのです。」

 大正十一年十月二十九日の午後

二時過ぎ頃のことであつた。僕は

一人で、駒込片町にある、日本無

政府主義の父、大杉榮氏の家を訪

ねて行つた。吉祥寺前を通り過ぎ

ると、駒込警察署の筋向ひに、左

へ折れる露路がある。この露路は

一直線に走つて、また向ふの裏道へ

抜けられる道なので。その露路を

入つて、殆んど突當りの裏街へか

ゝらうとする處に、大杉氏の家が

ある。東京の山手にある、普通の、

古ほけた借家建の一つだ。門の左

側には、「勞動運動社」と紙に書い

て貼りつけてある。右側には、板

屑のやうな木片を削つて、たつた

今書いたかのやうに墨が滲んで、

「大杉榮」とある。この二つは、僕

に、ある安易な氣持とくつろぎと

素朴さとに對する奠敬の念を與へ

ずにはゐなかつた。その前まで來

た時に家の中から、大きな演説口

調の聲がきこ江た。僕は戸を開け

るのを控へて耳を傾けた。何時の

時代のことか知れぬが、「ローマの

政治的生活」といふ聲だけが、切

りに、森としたあたりにひヾき渡

る。誰か於客なんだナと僕は入る

のをたじろつたが、仲々止みさう

でないので、思切つて戸を開けた。

右手が五、六坪の庭だ。植木なん

か無いやうだつた。座敷についた

橡が庭に面して圜ぐらされてゐる

そこに若い男が四人と一人の三十

七八にもなる、頤鬚の濃い、色の

白い男と、もう一人、三つばかり

の子供を抱いた女の人が座つてゐ

た。僕が入るや否や、さつきの聲

はハタと止んだ。そこに居並ぶ人

々の姿勢で、頤鬚の人が「ローマ

の政治的生活」を論じてゐたのだ

ナと僕は考へた。僕はその人々に

目禮して直ぐ玄關へ入つた。薄暗

い、陰氣な家だ。ドテラを着た二

十五六の、神經質らしい男が出て

來た。僕は大杉さんに會ひたいこ

とを云つた。その人は高い處から

庭に立つてゐる僕を見つめ乍ら、

やさしい、低い聲で、昨日から他

處へ要事の爲めに行つて未だ歸ら

ぬことを云つた。僕はその男から

いゝ印象を享けた。もうすこし話

がしたい氣が起つた。そこで僕は

「大杉さんは、逗子の方は引き拂

はれたのですか。」と訊いた。

「江ゝ、さうです。ズツとこれか

ら此處にゐます。今晩は多分歸つ

て來るでせうが・・・」と云つて、

その人は、

「何んな御用ですか?」と訊いた。

僕は別に要は無いこと、會つて話

を訊かねば解らぬことがあるから

などゝ答へ、終に「たゞ遊びに來

たんです。」と云つた。その人は、

未だ二十歳そこそこの、それも洗

晒の、十六七の時から着てゐる荒

い絣の着物を着た僕の、この無邪

氣な、素直な答へに、一寸苦笑染

みた微笑を湛江乍ら、「於名前は」

と訊いた。僕は自分の名を告げた。

するとその人は僕の名を、よく外

國人なんかゞやるやうに、一ぺん

呼び返してから、「歸つたらさう云

つときませう。」と云つた。

 僕はそこを出た。露路を左の方

へ歩いて行つた。そして電車道へ

出た。直ぐ、吉祥寺の古風な、積

木細工のやうな山門が、秋の午後

の陽をうけて、灰色に光つて眼に

映つて來た。僕の心に變な連想が

浮き上がつて來た。僕が今より若く

美しい歌舞伎芝居なんかに興味を

持つてゐた時分の恐ろしく、ロマ

ンチックな夢だ。一幕見でみた、

八百屋お七の艶つぽい、たまらな

く可愛らしい顔の夢だ。首の邊の

息のつまるやうな、處女特有の青

くさい匂が感じられる程、肉感的

な線の夢だ。なめし革のやうな肩

のへんの膚の夢だ。そして、色彩の

最高頂を極めた、あの着物の恍惚

さの夢だ。そして終には彼女の横

腹のへんから、チヨロツと蛇の舌

のやうにのぞいた、腹帶の赤さの

夢だ。それらの夢幻が、こんがら

がつて、若い僕の頭のてつ邊をズ

キンとうつのだ。官能をとろかす

のだ。性慾が一ぺんにうづき出し

た。死物狂ひになつて駆けめぐり

出した。眼の前のものがグル/\

走り出した。

 電車がさかさまに走つてゆくのだ。

・・・・・

 その時だ。僕のこの狂染みた、

奇怪な白晝まひるの夢は、ムザンに破ら

れた。僕の前に一人の男が立ち塞

がつてゐる。よくみると、靑黄い顔

をした小柄な男だ。頭の毛を前だ

けピンと立てゝ、口髭の赤い男だ。

縞の着物へぐる/\帶を卷いて、

座つてゐた人が、何かに驚いて急

に立ち上つたやうな様子をしてゐ

るのだ。彼の手には、鼻紙と萬年

筆を持つてゐるそこで、彼と僕と

の間にこの文の冒頭にかいた會話

が始まつたのだ。彼は續けた。

「あなたのお名前は?」

「僕は菊池與志夫といふ男です。」

 菊池までは分かつだが、與志夫と

いふ字は仲々彼に書けないのだ。

それを随分骨折つて漸く書かした

鼻紙なので、字がクシャ/\に滲

みこむ。それでも彼は落着いて、

先きを續ける。僕なら、苛々して

嫌になる處だがと思つた程だ。

「おところは?」

「牛込區河田町十番地です。」

「職業は?」

「何もしてゐません。」

僕は後が免倒なのでうそいた

「戶主ですか?」

「いや、僕の親父と同居してゐる

んです。」

「あなたのお父さんは何をしてゐる

ますか。」

「今、何もしてゐません。今にも

參つて了ひさうな重病人です。五

六年寢たぎりです。」

 僕はすこし、この男との問答に

嫌氣がさして來た。言葉や態度こ

そ普通だが、彼の背後に、僕等の

最も嫌な、呪ふ、ある强權を背尾

つてのこんな取調べが堪らなかつ

た。もういゝ加減にしろと思つた

ので、イキナリ僕は斯う云つた。

「一体あなたは何誰です。」

 彼は一寸顔をしやくつて、線路

の向ふ側の白い建物を指し乍ら、

「僕はあそこの駒込警察のもので

す」といつた。僕はそんな事位始

めから知つてゐた。が、何か彼をや

りこめてやり度い衝動に驅られて

更らに斯う云つた。

「僕が、大杉さんの家へ行つたこ

とは惡いんですか」そこで彼はニ

ヤツと笑つた。彼のその顔は如何

にもお人好しに見江た。いかにも

警察官の中から、やゝ思想的な尾

行位になつた男だといふ顔を見せ

るのだ。

「惡いどころではありませんよ。

むしろいゝと云ひたいのです」と

彼は變に眞面目になつて、急に聲

を低め乍ら、言葉を續けた。


(越後タイムス 大正十一年十二月十日 
    第五百七十五號 三面 より)




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ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵






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