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惡 魔 派 (七)

◇そとは吹雪の荒れ放題です。私

はふとマントのポケットのなかか

ら一本の葉巻をつかみ出したので

す。それは、その朝の船で南洋から

歸つて來た一人の若いマドロスの

友達がくれたものでした。私はマ

ントをスッポリと頭からかむると

身をかゞめながら、マッチをすつ

たのです。雪の白い光からも、瓦

斯燈のぼやけた靑白い、明りから

もへだてられた、まつ暗いマント

天幕テントのなかで、ユラ/\と燃江

るマッチの小さな焔は、恰るで妖

火を思はせます。やはらかな葉巻

の舌ざはりを感じると、私はマン

トを拂ひのけて立上がらうとした

のです。

◇その刹那です。私の身体は、マ

ントぐるめで、腕ぶしの强さうな

兩手のために抱きすくめられて了

つたのです。若し私が幻想に醉ひ

しれることのできない男だつたら

その時、どんなに大きな聲をあげ

ておどろいたことでせう!しかし

すでに室をぬけだすときから、美

しい幻を追ひかけてゐた私にとつ

てその出來ことは、その夢の中で

更らに一つの思ひ設けない變事に

ぶつかつたにすぎなかつたのです

◇私はわざと聲をやさしくして、

「何誰ですか」

と云つてみました。すると、不思

議にも、その聲といつしょにだん

/\とはがひじめがゆるんでゆく

のです。そしてまもなく、私の身

体は自由になつたのです。そこに

は一人の若い佛蘭西フランスの水兵が微笑

みながら立つてゐたのです。彼は

私がすつかり立上つてマントの裝

ひをたゞしくして了ふと、ニツと

ある本能的な、熱い笑を頬のあた

りに漲らすといつしょに、いきな

りマントの下の私の右手を彼の左

手がぎゆぅッと絞つたのです。そ

のとき、私は彼の心が何を望んで

ゐるのか、そして又彼は私を何ん

な人間と思つてゐるのかといふこ

とが、ハツキリ解つてゐたのです

◇私はそれを知ると、惡戯あくぎ的な好

奇心が、猛烈に湧き上つてくるの

を抑へやうとはしないで、かへつ

て、その水兵をもてあそんでやら

うといふ心でいつぱいになつてゐ

たのです。彼は握つた手をぐいと

自分の方へ引張りながら、何かの

話を持ち出す機會を得やうとする

ためか、或は、その時の氣恥しさ

をまぎらさうとする彼の心の若さ

からか、ずゐぶん覺束ない英語で

こんな事を話しかけて來たのです

「このへんに煙草みせはないか」

 私にしたつてまるで英語は話せ

ないので、彼以上に朴突な、拙い

言葉で、

「ある。こちちへおいで・・」

と答へ、この貧しさうな、外套も

つけない水兵に、ぴつたりとから

だをこすりつけるやうにして歩る

き出したのです。煙草店は恰度店

を閉めかけたところでした。

◇「金をお出し。シガレットは何

が好きか」

 彼はポケットから、くづれかゝ

つた、おまけに變な嗅ひさへする

蟇口を取出すと、電燈の下近く行

き、首を傾けながら、中をジャラ

/\やり出したのです。私ものし

かゝるやうにして、その黑づんだ

錢入を覗きこんでみると、日本錢

の銅貨と銀貨とを交ぜて十七八錢

位しか持つてゐなかつたのです。

「バットがいゝ」

 私が當惑してゐるらしい彼の手

から十錢銀貨を一つ取り、三錢の

釣錢と冷たい煙草の箱とを彼に渡

すとそのまゝ、彼の手を握つて、

ふたたび暗い大通の方へ歩るいて

行つたのです。

◇煙草店で私が太い聲で話したの

で彼は不思議な氣がしたのか、靑

白い雪路を歩るきながらも、とき

おり、變に私の顔を覗きこまうと

するのです。然し幸ひなことには

その頃の私の女性らしい容貌と、

細ぼそとしたからだつきに、丈の

長い黑マントをきゆつとひきしめ

てゐたことゝ、おまけに、毛深い

ハンティングで顔のなかばをかく

してゐたことなどのために、そし

て又、その時性慾の衝動にひどく

心を奪はれてゐた若い彼には、私

のトリックは、なか/\見破るこ

とは出來なかつたのです。私はい

つかやはり或るマドロスから支那

淫賣婦の話をきいたことがありま

す――黑いマントをまとつた、細

い小さな女の影が、頽廢的な支那

の港の街裏をまるで魔ものゝやう

に、さまよつてゐる――恰度この

若い佛蘭西人は、その夜の私をそ

んな風な女とばかし思ひこんでゐ

たのです。(つゞく)


(越後タイムス 大正十二年三月十八日 
      第五百八十九號 二面より)


#小説 #新聞小説 #大正時代 #マドロス #越後タイムス



ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵




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