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觀 劇 文 章(三)

    四

 次ぎは所作事の「三人片輪」であ

る。いつも言ふとほりこの種のも

のはいくどみても、さうして又ど

んな氣持のときにみても、僕には

面白い芝居である。氣らくで、變

化があつて、皮肉で、みてゐると

實に愉快である。くだらない精神

の垢などは、いつのまにか一掃さ

れて、ソーダ水のごとき爽快さを

覺える。

 これは長唄とか、常磐津とか、

凡そ洗練しつくされたる日本音樂

を巧みにつかつて、しかも、もと

もと不自然そのものと言つてもい

いほどの芝居には相應しい誇張さ

れた身振りによつて、僕らの日常

生活の苛いらした精神の花火を、

無意識のうちに放散させて了ふや

うに仕組まれてゐるからである。

僕らの日常生活は常にイプセンや

ストリンドベルヒで充溢してゐる

さういふ息ぐるしい生活を生きて

ゐる僕らは、さういふみじめな自

らの影をもつとはつきりと客觀的

に味覺したいと思つて、わざわざ

劇塲まで出かけて行つて、イプセ

ンやストリンドベルヒをみたくな

ることもある。さうして、みれば相

當にいい精神をうけとつてくるこ

ともあるのだから、さういふ芝居

も甚だ有益なものである。然し乍

ら、一方「三人片輪」のやうな人生

だとか、精神だとかいふむづかし

いことがらをいささかも持合せて

ゐないやうな、他愛もない馬鹿芝

居をみて失笑することも、時にい

いことであらうと僕は信じる。人

間の生活はいふまでもなく甚だ複

雜である。生活の表面にあらはれ

ない精神に到つては、到底他人の

想像をゆるさないほど錯雜してゐ

る。このことは僕だけについて言

ふのだが、ほかのひとにしたつて

恐らくはそのとほりにちがひない

だからときに馬鹿芝居を面白いと

思ふこともあらうし、或はまた別

なときには深刻味の抱負な近代劇

や現代劇に興味を持つこともある

だらう。いはゞ、われわれの精神は

そのとほりに氣まぐれで、又さま

ざまなのである。ほことん芝居が

面白いからといつて、まじめな新

らしい芝居を輕蔑するのもいけな

いし、現代劇が深刻だからといつ

て、他の遊戯的芝居を笑殺するの

も考へがせまいことぢやないかと

僕は思ふ。

 さて、こんな理屈などはどうで

もいいことだが、「三人片輪」では

やはりなんといつても猿之助が光

つてゐる。この芝居は「棒しばり」

や「素襖落」ほど澁いところが乏し

くて、少々わるふざけがみ江るの

が缺點だが、舞踊の達者な猿之助

などがやると流石に見事である。

 數十年後、恐らく今の歌舞伎芝

居の面目は著しく變つてしまふこ

とだらうと思ふが、この種のもの

或は「土蜘蛛」とか「茨木」とかいふ

ものは、尠くとも日本音樂が滅亡

しないかぎりいつもでも存在する

だらうし、又存在してもいいもの

だと僕は思ふ。何故といふに、こ

ういふ芝居には、凡そ文明といふ

ものが全くなんの關係もないから

である。

    五

 二番目は岡本鬼太郎氏作「昔摸

鼠小紋」二幕で、例の鼠小僧次郎

吉の芝居である。僕はまづどうい

ふものか鼠小僧次郎吉といふ人間

の性格を甚だ好きである。芥川龍

之介氏の小說「鼠小僧次郎吉」でも

鈴木泉三郎氏の戯曲「次郎吉懺悔」

でも、又この岡鬼太郎の芝居で

も、とに角鼠小僧次郎吉といふ人

間を面白く思へる。これは僕と次

郎吉との性格に多分の相似點があ

るからである。僕が若し彼の時代

に彼の境遇に生れたものとすれば

僕はきつと鼠小僧次郎吉になつて

ゐたにちがひない。次郎吉といふ

人間は、ほどよく澁く、又ほどよ

く甘く、さうしてほどよくおつち

よこちょいなところがある。

 まづこの「昔摸鼠小紋」といふ

芝居の組立を書いてみると、大体

次ぎのとほりである。

 鼠小僧次郎吉は天保年間に生存

してゐた實に不思議な大泥棒であ

る。彼は或るとき、箱根で偶然、

ある親娘の災厄を金で救けたが、

その金といふのが或る大名から盗

みとつたものでお上のお詮議中で

あつたから、當然その親娘に嫌疑

がかかつて、嚴しい處刑しおきに會ふの

だ。ところが、娘のお春は大へん美

しい女で、次郎吉に戀慕して箱根

で一夜の契をむすんでしまつた。

その後、父は下獄し、お春と弟の

與吉はその日の糊口にも困るほど

の身のうへとなつたが、お春は次

郎吉のことが忘れられず鬱々とし

て病床に呻吟してゐる。ところが、

或る二月の雪の降る夕暮であつた

蜆を賣つて歩るいてゐる弟の與吉

が、それとは知らずに次郎吉に會

ひ、哀しい身の上話をしてきかせ

たために、次郎吉はお春に會ひ、

その愛情にひかれてつい仕事にあ

せり捕はれてしまふのである。

 以上はほんの大体の仕組である

が、老巧な作者は蜆賣の少年をた

くみに使つて、芝居をらくらくと

面白くみせてゐる。又その蜆賣を

つとめてゐる龜三郎といふ子役は

實に非凡の出來榮である。左團次

の次郎吉は彼の持味相當の出來で

あるが、流石に作者が芝居に明る

いひとだけに着付などの好みがい

かにもいい。又蜆賣の子役に次い

でこの芝居をひきたててゐるのは

松蔦のお春である。次郎吉に一年

振で會つてからの戀慕情愛の塲面

などはその天賦のいろつぽさのか

ぎりをつくして、觀客をして思は

ず垂涎せしめるほどであつた。こ

れほど美しい情愛の深い女にいの

ちがけで戀慕されれば、鼠小僧で

なくたつた大がいの男なら参つて

しまふのは當然である。その神出

鬼沒の早業をもつて當時の世人を

驚倒せしめた鼠小僧次郎吉も、お

春のためにむざむざと捕へられた

のだからさう不足でもあるまい。

ときにかへつて本望ではあるまい

かとも思へる。それほどこの芝居

の戀愛的塲面は出色の出來榮であ

る。(僕のきくところのよると、越

後の女は情愛に乏しいといふこと

ですが、若しそんなひとがあつた

ら、この芝居のお春のやうに次郎

吉ほどのいい大泥棒に一夜をゆる

してごらんなさい。あなたはきつ

と本當の戀慕の情を知ることがで

きるから。――)

 いつたい芝居の―小說でもさう

だが―ことに世話物の戀愛的塲面

を完全に描出することは大へんむ

づかしいことである。はつきりと

性的行爲を演出することがゆるさ

れないものとすれば、尠くとも舞

臺で觀客を恍惚とせしめるほどの

戀愛的情緒を滿足に描くのは並々

ならぬ技巧を要することである。

彼らは常に危い一歩に踏み止まつ

て、性的行爲の露出から免れるだ

けの工夫をしなければならぬ。さ

うして一方、戀愛の最高潮の瞬間

を觀客に十分暗示しなければなら

ない。この意味に於ても「昔摸

鼠小紋」二幕目は賞賛に値する演

出である。

 その翌くる日の未明であつた。

雨戶を一枚あけると雪である。夜

來の雪は庭に降りつもつて、しか

しどこか暖かく淡い早春の雪であ

つた。三寸ほどものびて僕のかな

りあの新鮮な朝餐に爽かなみどり

を添へてゐたはこべも、みればい

ちめんに雪をかむつてゐる。

 ゆふべはあの奇麗なお菓子の城

のやうな劇塲の氣分にひたつたあ

と、わが家のつめたいひとり寢の

ゆめに、せめて自分もお春ほどの

女にいのちがけで戀されてみたい

ものだと、さまざまな怪しい空想

までも描いてみたが、目覺めてみ

ればやはり自分はひとりである。

 自分に氣に入つた女房でもでき

たらと思つて、それをたのしみに

購つてきた羽根枕も、もうひどく

古びてしまつた。僕は不機嫌にそ

のやはらかな枕を投げつけて雨戶

をあけてみたのだ。

 雪だ。
 雪だ。

 自分にはお春ほどのいい女房は

ないが、どうだこの雪は、まるで

ゆふべの鼠小僧次郎吉の芝居のつ

づきを思はせるではないか。(終)

―十五年三月稿―


(越後タイムス 大正十五年三月廿八日 
      第七百四十六號 八面より)

#歌舞伎 #三人片輪 #岡鬼太郎 #昔摸鼠小紋 #鼠小僧次郎吉
#越後タイムス #大正時代




       ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵


[2代目] 市川 猿之助

[2代目] 市川 松蔦

昔摸鼠小紋


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