藪目白を飼ふひと(その二)-吾が新年の言葉-
このごろ芝居も活動寫眞も、ち
つともみなくなつたやうであるが
それでも去年は數度芝居をみたこ
とを覺江てゐる。歌舞伎座を二度
と、市村座を一度と、一幕物劇塲
といふ新らしい芝居をみただけで
ある。歌舞伎座では、れいの羽左
衛門と梅幸との(直侍)と、松居松
翁(?)新作の(家康入國)といふ、
こけおどかしのへんな芝居と、(か
さね)と、それからついこのあひだ
延若の(敵討肥後の駒下駄)といふ
たわいのない仇討芝居と、福助と
市藏との(戻橋)―戻橋では福助い
かによくつとめたりといへども、
梅幸に及ばざること遠しである。
―と、猿之助の(研辰の討たれ)と
いふのをみた。このほかにもなに
かみたやうな氣がするが、もとも
と歌舞伎芝居などといふものは、
みてゐるときだけへんにいい氣持
だが、一歩あの絢爛をきはめた劇
塲のそとへ出ると、すぐに忘れて
しまひがちなものだからいちいち
覺江てもゐない。以上にあげたも
ののうちでは、(研辰の討たれ)が、
僕には一番面白かつた。この脚本
の作者は確か木村錦花氏だつたと
思ふが、大へん作者の個性がよく
出た脚本である。随分間が抜けて
ゐるなと思はせるところでも、よ
く氣に留めてみると、仲々作者の
細心の用意がひそめられてゐるこ
とが分る。(研辰の討たれ)の主人
公は、岡本綺堂氏の(小栗栖の長
兵衛)の主人公と共に、猿之助の
適役であつて、殆んど猿之助のた
めに書かれた脚本のやうな氣がす
るほどである。兄弟が三年間も諸
國を廻り歩るいて、漸くかたきに
出會ふと、その仇が甚だ臆病な男
で―恰度僕みたいに意氣地がない
のだ。草土手にしがみついてぶる
ぶるふるへてゐるさまなどは、言
ひたいこともろくろく言へないで
ひとりでくよくと思ひつめてゐる
僕とそつくりな感じである。―あ
りとあらゆる言辭を弄して命乞ひ
をするといふ芝居で、甚だ皮肉な、
それてゐて人間性の一面の眞をつ
たへるものである。またあの芝居
にみるやうな氣品のあるユウモア
はちょつと珍らしいものである。
一幕物劇塲へ行つたのは、佐藤春
夫先生の(彼者誰)一幕をみたかつ
たからである。ところが、なにしろ
役者がよくあの脚本を理解してゐ
ないので、折角のいい作品がちぐ
はぐなへんなものになつてしまつ
たやうである。尤もあの脚本は、
讀んだことのあるひとはお氣づき
であらうが、觀客の標準をきめな
い劇塲などで、雜多な人間を前に
置いてやるべきものではなくて、
あの氣分をそつくり出さうとする
には、佐藤先生を十分に理解して
ゐる役者と觀客とだけで演出する
か、或は佐藤春夫家の二階で先生
自らが演出するかどちらかでなけ
れば滿足な出來榮を得られないも
のぢやあるまいかと、僕は思つた。
僕がこう言ふのは、先生の脚本の
價値を疑ふわけでは決してない。
むしろ先生の脚本を理解できる役
者や、先生の描いた黄昏の人間の
心持や、渾然たる暗示的技法に同
感を持つ觀客が餘りに尠なすぎる
のを憐みたいのである。市村座は
野瀬に切符をもらつて、ついこの
あひだみたのであるが、正宗白鳥
氏の(老醜)と谷崎潤一郎氏の(無
明と愛染)と長田秀雄氏の(微笑)
と菊五郎の(戻駕)とであつて。こ
れは尾上伊三郎や鯉三郎などの兄
弟座の研究的公演で、いづれも眞
面目にやつてゐたので脚本相當の
出來榮であつたが、とりたてて讃
辭を呈するほどのものでもなかつ
たやうである。
僕は分らぬ乍らも、芝居は、た
とへば菊五郎の(棒しばり)とか
(二人袴)とか(素襖落)とかいふ風
な、皮肉な味のある所作事がいち
ばん氣らくにみれて好きである。
このごろの僕は、わざわざ劇塲ま
ででかけてゆくのがひどく臆腔だ
し、そのうへそこで頭がいたくな
つたり、心がうづいたりするやう
なものをみせられるのはたまらな
く嫌なのだ。ひとに切符でももら
へばみにゆくが、さうでもなけれ
ば行く氣はない。そして、いつもひ
とに上等席の切符をもらふので、
今では一等席以下の座席でみるの
がいやになつてゐる。いい座席で
ゆつたりと、しかも呆然と時間つ
ぶしをするのなら、まあそれほど
いやでもないし、もしろたまには
憂さはらしにいいもののやうにも
思つてゐる。こんなわけだから、芝
居のよしあしなどはもとよりこの
僕に分るものではない。ほんのち
よつとした幻惑的陶醉の氣分-こ
れが僕が芝居から得る唯ひとつの
いいものなのである。
(越後タイムス 大正十五年一月十日
第七百三十五號 四面より)
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研辰の討たれ