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わたくし



 ある朝のことである。私は混み

合つてゐる郊外電車の中で、二人

の若い女達の話を聽くともなしに

つひ盗み聽いてしまつた事がある

女は二十歳を一つか、二つこ江て

ゐやしまいかとも思はれる年頃で

あるが、二人ともどこか定つた勤

め先を持つてゐるのであらう、私

日曜日をのぞいて毎朝のやうに

同じ時刻に、その女達の姿を同じ

停車塲ていしゃぢやうに見つけたからである。そ

の上私は、その二人の女の住み

までも知つてゐる。私が停車塲へ

出るのには、どうしても彼女達の

家の前を通らねばならなかつたか

ら、ひとりでに、彼女達が家から

出かけるところへ、ひょつくり出

會ふことが度々あつたのである。

一人の女は坂の下に住んでゐた。

もう一人は坂の上の柘榴の樹のあ

る家から出て來るのを私は見た。

 さて、その朝彼女達が電車の中

で話し合つた―といふよりは囁き

合つたことゝいふのは、極くつま

らない。ありふれた會話ではあつ

たが、私には、へんにいつまでも

耳の底にのこつてゐて忘れられな

いのである。


「あなた、愈々おきまりになつた

のね」こう言つて坂の上に住んで

ゐる方の女が、幾分寂しさうにし

て、きらつとよく光る瞳を、隣り

に立つてゐる女に向けた。すると、

さう話しかけられた女は、「江?」

とすこしばかり妙な表情をつくつ

てはみせたが、直ぐ或る生理的な

敏感さで彼女の友達の方をふり向

き乍ら、こんどは頷くやうに「江

ゝ」と答へたのである。


 私のぬすみぎいた娘たちの會話

といふのは只これだけである。こ

れだけのことがどうして私の心に

泌みついたのか、私は知らない。

だが、私は女が、「江?」と言つて

訊きかへしたとき、ぼうッと彼女

の頬にのぼつた、うすくれなゐの血の色

を覺江てゐる。そしてもうすこし

私の氣まぐれに近い記憶をひきだ

しさへすれば、その日から一週間

ばかり經つてから、ずつとこのか

た、坂の上にすんでゐる方の女の

側から彼女の親しい友達の影が消

江失せてしまつたことを言ひ得

るのである。


 私は此頃、自分のあぢきない戀

ごころを、獨り淋しくみまもつて

ゐる。なにごとによらず切ない自

分をいたはつてやるとでもいふつ

もりで、私は自分の戀ごころを、

いとしく思ふ癖がついてしまつた

そして、さうすることによつて、わ

づかに自分の苦しさと、憂鬱に近

い侘しさとを慰めてゐる。そんな

時に、ふつと私は上に述べたやう

な一情景を思ひ浮べるのである。

すると不思議なことには、私の頬

にも、あの女のやうに、ぼぅッと

のぼせるやうなぬくみをおびた血がの

ぼつてくるのを感じる。そして自

分は今、戀をしてゐるんだな、と

いる意識があまりに明瞭はつきりしてきて

しまひには、自分の戀ごころを自分で

知るのさへ、なんだかはづかしい

やうな――そんな純な心持になる

のである。それから私は、「君は可

哀想な男だね」こう獨言を自分に

言つて、どこかへ散歩にでるので

ある。(十三年三月稿)


(越後タイムス 大正十三年三月三十日 
     第六百四十四號 四面より)


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