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秋 ぐ さ (三)

秋 ぐ さ (三)  

――續稿――  きくち・よしを

 午前八時をすこし過ぎたばかり

である。海抜三千幾百尺といふ、

この高原でも、さすがに八月の日

ざしはいちめんにふり注いで、や

うやく夏の温度を加へやうとして

ゐる。しかし乍ら、すすき原をさ

やさやと吹きわたるあさ風の音に

も、つゆ草の花のいろほどに靑く

澄みとほつた空をみあげても、或

は素朴な草舎風な別莊の露臺に置

かれた鉢植の草花に、斜めに日が

さしてゐるのをみても、秋を感じ

るのには十分である。街の喫茶店

は大分まへに店をあけて、もうパ

ンを焼くかほりを漂はせてゐる。

新鮮な果實やミルクを賞美し乍ら

トーストパンを囓つてゐる靑い眼

の人が、ひとり窓ごしに畑の向日

葵をぢつとみつめてゐる蕭酒な明

るみをもつた風景でさへも、どこ

となく靜かな寂しさをともなつて

とほりすがりにみる眼には秋のた

たずまひである。

 さつき落葉松の林にかたはらを

歩るいてきたが、あの小さな細い

葉に露がこもつて、日にかげろつ

てゐるのをみるのは雪はれの朝の

重おもしい爽やかさとでも言ひた

い氣持である。落葉松や山毛欅ぶな

どの林をみると、さすがに雪深い

北國の冬が眼にうかんで、冬の樹

林にひそむ寒さなどを思ひ出した

りした。落葉松の林にも陽はこぼ

れて、葉のむらがりが、つららの

やうにくらくひかつた。

 あちこちの家で窓をあけだした

やうである。窓をあける音といふ

ものは、ふしぎにすがすがしいひ

びきをたてて、朝の感じの深いも

のである。

 自分だちはさういふ朝あけの氣

分を珍重し乍ら、街をはなれた山

蔭の川原へおりて行つた。流れの

ほとりに足をなげだして、ぢつと

ゆく水の音に聽きいつてゐると、

ひとしほ山氣さんきの靜けさを深く覺江

た。深い樹林にひびきわたるほど

銳い朝の小鳥の鳴きごゑをもきい

た。しかし、日が高まると、山の林

で蟬がなきだした。

 その頃になると、街の方からは

うすものを無雜作にまとつた外國

人だちが、それぞれに、紙包みや

バスケットなどを提げて、みなな

にか聲たからかに笑ひたはむれな

がら、いくたりとなく山路をのぼ

つてゆくのが、自分の虚ろな眼に

うつつて、それはひとつのかがや

かな幻のやうに往來した。

 いつたいに外國人といふものは

明るい幸福さうなひとが多いやう

であるが、故國を離れて遠く日本

の國などに住んでゐるひとびとが

どうしてあのやうに快活に生活を

たのしむことができるのであらう

と、自分はかれらをみるたびに、

なかば羨ましく、なかば不思議な

氣持をよく覺江る。活動寫眞や芝

居などでは、随分と深刻な悲愁に

なやむかれらの生活をみせられる

が、どうも自分にはそれがほんの

わづかな惠まれぬ宿命にある人に

過ぎなくて、多くの人々は、性格

そのものが愉快につくられてゐて

また彼らの生活も十分に幸福なの

ではあるまいかと思ふほどである

ことにこういふ彼らのうちでも、

いい暮らしをしてゐる人ばかりが

集まつて、ひと夏を、遊び暮らす

といふやうな街でみるひとびとは

、なほさらに、さういふ感じの深

いものである。たとへばピクニッ

クといふものは、われわれ日本人

にとつても愉しいものであるが、

ただわれわれは彼らのやうにピク

ニックそのもののために生きてゐ

るのだといふ風にはゆかないやう

である。彼らはピクニックそのも

ののなかに完全に生活を愉樂して

ゐる。かれらはさういふ生活のほ

んのかたときに於てさへ、積極的

にたのしんでゐる。しかし乍らわ

れわれは、さういふ塲合にも甚だ

消極的である。ながい、つきるこ

となき惱みや嘆きにみちた生活の

あひだの、ほんのちょつとした氣

まぐれな明るみをもとめる――さ

ういふ氣持をかたくなにもひそめ

てゐるわれわれは、到底彼らのや

うに、歡びそのもののなかに沒頭

するやうな生活の表現はできない

のであらう――自分は滾々と流れ

やまない小川の音に聽きいり乍ら

そんな哲學をひとりで考へてみた

と、ひゆぅッと、つぶてのやうに不

氣味な口笛を吹いたひとがゐる。

それははげしく、林の彼方にこだ

まして、暫らくのあひだ餘韻をひ

いて、あたりにこもつた。みると、

橋向ふの大きな石のうへにひとり

の若い外國人が立つてゐる。彼は

かたはらのミス×××と書いた名

札をはりつけた家の門の前に立つ

てゐるやうである。(自分はさつき

その家の前を歩るき乍ら、門のか

たはらに、ミスタア××、ミセス

××ミス×××といふ風にその家

に住むひとの名がみな書き示され

てあるのをみてへんに思つた)

 彼はその家の奇麗に刈りこまれ

た芝生のところどころに匂つてゐ

る白百合の花をもふるはせるほど

銳い、まるで百舌鳥のなくやうな

口笛を、ひゆぅッともういちど吹

きならした。すると、そこへひとり

の若い女が、からたちの垣根をつ

たふやうにして、ひそびそと近寄

つてきた。どうもそれがミス××

×であるらしいのだが、そんなこ

となどはどうでもいい。かれらは

とにかく、こつそりと、微笑わらつたの

である。秘密なたのしさを分つと

きに誰れもがするあの微笑である

そしてなにかひそやかにささやき

合つてゐるやうである。いふまで

もなく若い彼らふたりは外國人の

戀びとだちである。輕井澤の午前

の日ざしのなかに、かれらは明る

い密會をたのしんである。

 自分は切なきかた戀びとの面影

を温かくなつかしくひそかに心に

いだき、友だちは妻と遠く住む身

のうへに深き溜息をもらし、共に

この小さな流れのせせらぎの音に

さへつきぬ哀愁を寄せてゐる―さ

ういふ自分だちにとつて、それは

餘りに輝かすぎる戀愛的風景では

ないか。幸福な外國人といふもの

は、ピクニックだけではなく、か

りそめの往還のほとりにさへ午前

の密會をたのしむために生きてゐ

るのか。かれらがそこで接吻キツスをし

なかつたのが、かへつて自分には

不思議である。しかし、かれらは、

まもなく肩を竝べて山の方へ歩る

きだした。山の林の樹木の茂みは

深いのだ。たとひかれらが外國人

であるにしろ、なんであの往還の

白光を浴びてあはただしい接吻キツス

盗み合ふことがあらうか。

 くらやみのなかでぬすむ接吻キツス
 くらやみのなかでかへす接吻キツス

と、ハイネはうたつてゐるではな

いか。

 せんだんの林にひそめば
 せんだんの薫り衣をそめぬ、
 こころを染めぬ、
 かのひとをつれて來まほし、
 せんだんの林の奥に

と、わが國の詩人大木篤夫はうた

つてゐるではないか。

 山蔭の路を深く分けのぼつてい

つたかれらこそは、これらの詩の

こころをよく知る、いい戀びとだ

ちである。

 (――へんな原稿――第三稿續篇)

(越後タイムス 大正十四年十月四日 
    第七百二十二號 四面より)


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