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靑年の三つの生道 (下)

◇本質といふ以上非本質がなけれ

ばならない。根本とは同一なるも

のゝ深さである。西田氏は明かに

「神人同性の關係」を宗教の本とし

「神は宇宙の根本であり、兼ねて我

等の根本でなければならぬ、我等

が神に歸するのは其本に歸するの

である。」と同書二七一頁に書いて

居られる。

◇宮川氏は肝心の根本を本質と誤

解された爲め「個人の意識と神と

の二つを豫想」されたのであらう。

西田氏は決して、宮川氏の說く人

工的な神を指しては居ない。個人

意識の根本が神なのである。故に、

宮川氏が「意識の有無に不拘永久

に神が存在すると認信せられる」

のとは反對に、僕等の神は、僕等

自身の意識の内にあるのだ。神は

我自身である。故に我の神は我を

限界として亡びるのである。

◇地球に生存する無數の我は絕江

ず流動出滅する。併し乍ら、あら

ゆる我が絕滅せざる限り、或る我

の神は實在するのだ。僕は、僕自

身である神に甘へやうとはしない

僕自身と同じ血脈の通つてゐる神

に、單に利己心から祈らうとはし

ない。僕自身を愛することは、即

ち、神を敬愛することに他ならな

いのだ。

◇宇宙の何處かに隠れてゐて輪投

でもして遊んでゐる神様に祈るこ

とに依つて、自分が救はれ、世界

が正しき方向に進むと信じられる

人は實に幸福である。宮川氏は祈

を知らない僕等を訓じて、シンフ

オニイの例を引かれたが、今の僕

等にとつて、音樂は第二、第三義

的のものであつて、僕等が必死に

なつて苦しみもがいてゐる問題は

痛烈なる僕等の生死の事實に關し

てゐることを考へて頂きたいと思ふ

◇祈の極地を味ふ爲めには、僕等

の如き非藝術的な男は一生を犠牲

にしても、交響樂を雜音と區別し

得る域にまで到達し得ないのは知

れきつてゐる。たとひ、交響樂であ

る祈を自分の生活意識にピツタリ

と合致させることが出來たとして

も、それが僕等の直接の生に何の

關係があらう。僕等は祈の爲めに

生きてゐるのではない、生そのも

のに引づられて生きてゐるのだ。

◇祈が「自己の或計畫の實現に神

の御力を頂かんことを願ひ、其計

畫は特殊的に可能なるものにして

祈は之に働らく生命躍動の原動力

なり」であつたなら、よもや、斯ん

な、不合理な、不正義な、膿のや

うな世界にはならなかつた筈だ。

特殊的とは絕無の別名か、然らず

んば、基督者の頭取位を意味する

のだらうか。宮川氏に據ると、「神

から與へられた力がヒシ/\と湧

くを覺江て、あらゆる神への反逆

者に向つて、大なる飛躍が演ぜら

れる」のださうであるから、つま

り、祈りとは、神への服従者と反

逆者間に於ける、前者の獨占する

唯一最大の武器であるといふこと

になる。

◇宮川氏は「魂は体と云ふ宮居に

居る」と云はれて、明に二元論を

奉じられるが、死後の靈魂の裁が

恐ろしいからといつてこの現實惡

に向つて正義の力で破壊せんとす

る僕等の信念を、よもや自由性の

亂用だとは云はれまいと僕は固く

信じる者である。

◇「神は人に自由性を與へ給へり

云々」は明かに基督者側の立塲を

辯護するパラドックスである。基

督教の說く人工的神は、萬能全知

の神である。そして人間の世界を

創造したものはその神であるさう

だ。それならば、その不可知力であ

る偉大なる神は、人間に自由性を

與へんとする時に、その自由性を

人間が亂用するかしないか位のこ

とは解つてゐなければならぬ筈で

ある。形而上の問題が、斯う科學

的になると後を書く勇氣も無いが

要するに宮川氏は、この神夫自身

矛盾撞着したものを、全知全能の

神と信仰して祈りの對照とされて

ゐるのだ。

◇カール マルクスは「由來一切の

歴史は階級闘爭の歴史である」と

云つた相だが、「人間の自由性が宗

教的情操の滋養を遂げてあるなら

ば、必ず階級間、民族間、人間間

の反目を未然に防げた」歴史を僕

は知らない。そして未來に於て防

げるとは思へない。宮川氏は未然

にと云つて居られるが、未然とは

何を指すのであらう。

◇僕は宮川氏の熱烈なる信仰心を

否定するためにこれを書いたので

はない。僕は毎日の様に顔を會し

親しい會話を交へてゐる氏の思想

の根本と僕のそれとが正反對であ

る爲めに、僕の信ずる處及び宮川

氏の思想に對する疑問を公開して

廣く第三者の批判に訴へ、僕の誤

謬や疑問に就いて教示を仰ぎたい

のである。お互に目指す仇敵は社

會惡であり、不合理なる傳統的權

勢である。

◇故に、宮川氏は「宗教的情操の

教養から來る生命の飛躍に依り」

及び「世界中の人間が神を識ると

いふことが大切だ。勞働問題など

は末の末だ」や。「議論する中には

神はない。神は信仰夫だけだ。」等

の固い信念に依つて、僕等は僕等

自身の現實生活に立脚する反抗心

に依つて、同じ高嶺の月を見やう

としてゐるものである。

―― 一九二二、一〇、一〇稿 ――


(越後タイムス 大正十一年十一月五日 
       第五百七十號 三面より)


#神 #祈り #カールマルクス #越後タイムス #大正時代 #哲学


ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵
菊池けいに答ふ(上)
                 宮 川 幸 洋
◎「運命の手痛き惡戯が、執拗に附
け狙つて行く道を阻み、社會組織
の不正から、生き乍ら血を絞らる
ゝ程の苦しみに、「神は惡魔だ」、
「神は呪ひだ」と、悲壯な叫びを、重
態の父上を見とりつゝ發する兄が
「靑年の三つの生道」に依つて、私
の「靑年と宗敎」の蒙を知らせてく
れた事には、「兄に於てこそ、そし
て今に於てこそ、全く兄の叫ぶ通
りだ」と私は頭を下げる。
◎兄は随分遠慮して書かれた。も
つと强く「宮川の野郎は、人の苦
しみも知らないで、そしてその苦
しみは、ブルの搾取と、宗敎の妥
協が――宗敎家とか神樣の愛とか
ほざく連中と共に、ブルの足下に
ひれ伏して、神よ愛よと、ひとり
よがりしてゐる。――夫が我々を
苦しめるのだ。そう云ふ奴等の首
たま引き抜くぞ、」との悲憤の言葉
を靜かに隠して居られる。(夫は兄
の常々云はれる「人は決して憎め
ない」と云ふ吉田絃二郎氏のやう
な兄の性格は、兄の底深く有して
居られる事とは矛盾しない。何と
なれば、二つとも矛盾の上に立つ
ものではないから、)夫程兄の過去
及現在の生活は悲壯であつた。
◎夫と同時にその飽くなき、呪ひ
から逃れやうとして、光を無性
矢鱈に探し求められた。けれども
兄は遂に何物をも求め得ずに私か
らも失望せられた。愁然として歸
られた兄は、西田博士の說と、老
子等に、自己の道をを見出して、漸
落着きらしい何物かを纔かに得
られたらしい。
◎一つの小さき魂が、光を求め
苦しむ時に、私が天下つた歡喜の
神を振りかざして向つた時に、私
の生活そのものがとてもそんなも
のではなかつて事に、兄は失望せ
られたであらう事を私は詫びなけ
ればならぬ。
◎私がこんな個人的な關係を公に
する所以は、神を信じ、佛の道を
說く人間が、周圍の信じ得ない人
間を以て、直ちにその人達をあは
れなものよと、考へる事は間違つ
てはしないだらうかと思ふ事と、
もう一つの信者の云ふ言葉と、其生
活との不一致を以て直ちに宗敎そ
のものを否定せられる事は、早計
ではなからうかと考へられるから
である。夫は信者そのものゝ罪で
あつて、決して「光り」は依然とし
て、否そう云ふ風に心から叫ばる
ゝ人々を――却つてその人を待つ
てゐると考へてゐるのである。
◎さて私は答へねばならぬ。兄
に對して、何も辯解の言葉はない。
私が「宗敎と靑年」とが、神の愛を
說く程に精進してゐない一ヶのヤ
ンチャな我がまゝものであるから
又私も同じくパンに苦しみ、信者
さへ心よく思はず、ブルに、プロに
凡ての人が――私に或る侮辱と苦
しみを與へた事を知れば――之を
憎む、夫許りではなく、自分自身
さへ不甲斐ない奴だと、罵つてゐ
る。實際理想は高く、おこなひは常に之
と離れ、そして自分の何物なりや
さへ疑つてゐる。
◎もしも私がハッキリ神の無い事
が判れば、今よりもつと大膽に暴
れ廻るであらうし、又ハッキリ神
が嚴にあるぞと、そして其の神は
これ/\だと判れば、今の煮江切
らない生活は、フツツリ止める。
神の存在の誠に不明瞭さから私は
おびへて、祈つたり色々の事をし
て見る、之は随分變な考へである
と兄は考へるであらう、何となれ
ば今迄の私が「神々」とハッキリし
た樣な事を言つてゐたのにと兄は
思はれやうが、私の多くの書信を
綜合して見れば判ると思ふ。
◎さて兄は「靑年の三つの正道」を
說かれた。夫は現實の靑年であつ
た。私の「宗敎と靑年」は理想の靑
年であつた。かくあるべき靑年を
說いたけれども、如何にして斯く
あるべきか、その現實の靑年が上
る道を、梯子を言はなかつた。も
しも人間が個性と云ふものを認め
られないならば、そして一樣に神
を信じ得べき「性質」を必ず境遇の
如何に不拘、持つて、且夫を体現
し得るならば、容易の事であつた、
然し實際は私の理想論とは餘りに
かけ離れてゐる。
◎であるから「靑年よ」と私が叫ん
だのは勿論凡ての靑年であつたけ
れども「おれはそんな下らない話
は邪魔になるぞ」と云ふ靑年の言
葉は豫想してゐる。
◎「梯子」は内にあつた。夫は自分
だ、「生きる本能」夫だ。生きてゐる
と云ふ事は一の事實だ。生きる事
は意識でなくて本能であつた。此
の生を阻むものに對しては、生理
的にあらゆる戰をする。夫が梯子
だ。生きる爲めに所謂神を退ける
事は又止むを得ない。けれども夫
は意識でなくて、本能のうなづき
である時だけに限定される。その
戰ひ、その苦しみ、夫は創造だ、
そこに神があるのではなからうか
「神は我と共にありて苦しむ」と云
ふのではなからうか。私がかうだ
と云ふ宮居と云つたのは、夫を意
味してゐるので、何も二元とか一
元とかに區別出來得る事はないの
ではなからうか。神即ち自己だ―
―之とても誤解される言ひ方であ
るが、神は我と共に在ますの意―
―そしてあらゆるものはそう叫び
得る。それは多神を云ふのではな
く一神をさしてゐるのである。
越後タイムス 大正十一年十二月十日 第五百七十五號 二面より


菊池けいに答ふ(下)
                 宮 川 幸 洋

◎生命は創造だ、宇宙は生命の構
成だ。宇宙と我とは必然に一致す
る、一つだ、宇宙にある神は即ち
我の中にある神だ、夫が無限に、
空間と時間とを絕して存在してゐ
る、そして夫が宇宙の根本であり
創造主である。生命は永遠の流れ
だ。私が西田博士の宇宙の本質と
云つたのは「根本」の誤解であつた
◎けれども是だけでどうして基督
敎の神が說かれ、佛敎や、回々敎
が說き得るか。私は基督敎が絕對
の宗敎だと考へたのは、此の私の
信仰を裏書してゐると思はれるか
らである。仲には、宗敎的ドクマ
から、宣傳から、他宗敎の排斥か
可成なるべく本來の神を云ふべく、索强
附會に堕したものもあると言はれ
やうが、夫は私の言ふ基督敎では
なく、その体樣をしてゐるらしい
のである。
◎もしもあらゆる己成宗敎が、其
純粹の宗敎的性質のみに依つて形
づけられてゐたならば、どの宗敎
だつて同じかも知れない。多少の
非宗敎分子が、その敎理として敎
へられてゐる現狀に、私共が宗敎
の選擇をするのは已むを得ない、
從つて宗敎から離れて行く事も又
已むを得ない。
◎兄が眞實の神を求めて、あらゆ
る己成宗敎にあきたりなく思つて
ゐる氣持は、嚴肅なものである。
やゝもすれば私等が、妥協に落ち
て獨りよがりする時に、ガンと一
つ叫ばれるのは――利己的の言ひ
方であるが――苦しいけれども必
要であつた。
◎兄は「宇宙の何處かで隠れてゐ
て、輪投げでもして遊んでゐる神
に祈る」と嘲笑せられたが夫は誤
解ではなからうか。「天なる父!」
と祈る言葉の形式の譬としては、
そんな意味に取れるかも知れない
けれども天なるとは空間的の天で
なく、數種の心の葛藤が伸びんと
する生命の要求を入れる神、創造
主、夫を云ふのであつて、私は夫
を統一された一つの觀念として、
自分の中に發見するのである。形
而上の問題が科學的になつえ嫌に
なつたと言はれた事には真に申譯
がない。又こんな信仰の事は、譬
の形に於て表はされなければ、述
べられない。
◎西田博士は「善の研究」を、「私の
言つてゐる事はあの說明では自分
の氣持が充分讀者に判るまい」と
言はれたさうだ。「直觀」は自分自
身以外に語るには、非常に適切な
譬を用ひないと誤解され易い。兄
が「交響樂である祈り」と私の祈
りを揶揄されたのも私の譬が適切
でなかつたので夫は私が惡かつた
◎昨年私がヘッケルの實在論に夢
中になつてゐた頃、祈り等が判ら
ずに居つた氣持が、丁度先日、日
比谷で交響樂を聞いた時の氣持に
も似たものであつた。私の此の譬
は、氣持の事であつて具体的に交
響樂即ち祈りの考へでなかつた事
を改めて云つて誤解を說く。
◎「特殊的に可能なるものゝ實現」
が祈りの本質であるとは、人間と
してなし得るものに不拘、その人
の自信の弱さから、どうしても出
來ない時に祈つて或る靈感の導き
で、行ふと云ふ塲合をも指してゐ
るのであつた。奇蹟等の表はれも
此祈りの强弱に依るのではなから
うかと思はれるけれども、私は祈
りが出來ない。夫は信仰の薄いた
めと例の神の不明瞭さが、祈りの
時に私をおびやかすから。
◎もし人間が自分に行ひ得ない事
を憶面もなくベラ/\しやべる事
が出來ないのであつたら私は此の
文章の大部分を削らなければなら
ない。私は自分に出來ない事でも
その色々の話の暗示から、相手の
性質の善良さが、私の豫期しなか
つた銳きものを以つて、事物を洞
察して行くであらう事を考へて自
信のない事を言つてゐる。
◎「死んだ人を生かしてくれ」と云
ふ事は祈りではなく、强要であら
う、夫がどれ程人間味の尊さから
發して、そう云ふ事を言つてゐて
も自身が已に死人の生き還る事に
は近代人には疑ひがあるであらう
祈りは淳一な他力でなくてはなら
ない。
◎けれども祈りがそんなものなら
祈らなくたつて出來ると云はれる
のであつたら、夫迄の事である。
とても强いる事は出來ない。信仰
だつて妥協や强制であつたら、夫
は何物でもない。信じ得ない人に
信ぜよとは言ふ人が無理だ。只、
兄は信じ得るがなあとか、私と同
じ考へになり得ると思つた時に、
色々信じ得ると考へる方法を講ず
る事は差支へない、選擇は兄に存
するから。
◎夫から「死後の靈魂の裁きが恐
ろしい云々」等は今私はハッキリ
考へてゐない。死後の事業は正し
い意味に於て判る筈はないと思ふ
靈魂の滅不滅論は生きてゐる人々
の死の怖ろしさに依る、自己安慰
の想像に過ぎないだらう。死後へ
の門は固く閉されて、神秘だと私
は思つてゐる。宗敎上の事を話す
と寂しい。夫は自分は何も出來な
いからだ。
◎之以上何を言つても兄は矢張り
兄の道を行くであらう。一々論理
的に問はれると私共は直ぐ矛盾し
た事を云ふ。そゝかしい上に充分
思ふ事も言ひ得ないからだ。勞働
運動が末の末だと云つたのは、ブ
ローカーとしての事で自分自身の
ものでない時に限る意味だ。
◎要するに僕の「宗敎と靑年」が兄
の反感を買ひ、更に多くの人々の
つまづきとなつたのは私は惡いの
だから詫びる。夫は私の非宗敎的
性格の然らしむるものだと考へて
ゐる。私は玆に菊池兄の與へられ
た文に依つて、自分の非を覺り得
た事を感謝する。終りに私の心境
を語りたい。
◎孤獨は辛い――宗敎の話をした
時は何時も孤獨だ、行動と口が背
中合せだから、不徹底と云ふのも
こうした内的の爭闘から生れる。
更に夫は銳き良心にヴェールを掛
けて二つが默つて手を結ぶ、そこ
に惱ましき涙が――血が――躍り
狂ふ。此の現象が一ツの妥協とな
つて表はれる。
◎私は神を中心とし、全一とする、
然し生物は個の特異を主張すべき
だ。其特異に眼覺めて從つた人が
宗敎の眞理を掴む。けれども物質
の缺乏は更に混濁を投げかける。
そして一層人間の叫びを迷宮に入
れる。矛盾が出る。一ヶの矛盾が
他個への推理として當然に、矛盾
を生ずる。こうした矛盾の連載が
複雜さが、一層視覺や聽覺の、眞
實さを遠からしめて宇宙が出來る
宇宙は矛盾の樣だ。矛盾の世界よ、
我よ、自己の立塲の矛盾の無意識
的辯解よ。・・・・。
◎頭が妙になつたので之で止める
亂雜の文を御詫びして。
越後タイムス 大正十一年十二月十七日 第五百七十六號 六面より


雜 信
◎  幸 洋 生
◎久しく御無沙汰致しました。食べる
ためには餘りに忙しい我らは、生の刻
みさへ意識する事も出來ない、そして
只々刺激の强い線香花火的の文字の羅
列たる詩や散文から、直に生の感激や
統一の幸福等を味ふのである。白村氏
でなくとも如何に我々が皮肉にも天才
の銳き觀察のまがひたる末梢神經の活
動が病的の異常の瞬間的緊張さを示す
事に依つて、直に「生活の觀賞」をした
と考へて――そして夫が結局体験と云
ふ言葉と一緒になつて更に自分に於て
線香花火の創造とかにかゝるのである
と思はれます。
◎菊池與志夫君が余の「宗敎と靑年」を
反駁された動機は同君の若き生命が正
に伸びんとしたる際に一度ならず再三
「運命」と云ふものゝために夫は實に小
ひどく虐げられたが爲めに「神は呪な
るぞ」と悲痛の聲を叫ばれた事から、
即ち之は實に世の線香花火から來た概
念的思惟のものではないのであつた。
夫を知ってゐるだけ私は彼に答へるに
はセンチメンタルの感情に支配せられ
るのである。
◎「宗敎と靑年」を書いた後――いや夫
よりも毎日々々――私の考へは變つて
行きます。そして何時も事に宗敎上の
文章や、言葉を發した後は、云ひ知れ
ぬ淋しさに襲はれます。夫は自分がそ
んな神の言葉を中間的に述べる資格は
寸毫もないに不拘、偉さうに述べたが
ために、夫に依つてつまずかれる人が
あると考へられるからであります。
◎菊池君が私に轉け込んできたに不拘
少しの力を得ず淋しく虚無主義へ入つ
て行つた事は、菊池君を悼むより先づ
自分自身の心のみにきを憤つて了つ
たのみならず、一層惡い事には神樣さ
へ疑ふに至つた事もあります。
◎土田杏村氏の文化主義に對しては、
大分非難のある事を聞いてゐます。先
の讀賣新聞には例の快男子前田河廣
一郎氏が決闘狀を差し付けました。誤
解があつても非難は飽く迄受け樣。此
の意味に於ける闘爭は感情の純化の限
定に於ては世の進化には絕對に必要で
あると考へます。誠に亂雜の文ですみ
ません。
◎冬近くなつてきました。北風が濤聲
と共に物凄くひゞく事でせう。御から
だを大切にそしてあなたのあの公平な
論評と態度が柏崎の郷土文化の基礎と
なる樣祈ります。亂筆幾重にも御詫申
し上げます。
越後タイムス 大正十一年十二月十日 第五百七十五號 八面より


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