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横 濱 消 息

 ――詩人の思ひ出――の作者であ

る品川力氏は、いま横濱の街で勞働

的休息の生活をおくつてゐる。

 彼のゐるミルクホールのあるとこ

ろは、いまから七年ほどまへの或る

冬の晩、僕が支那淫賣婦とまちがへ

られて、或る若い佛蘭西水兵のため

に、いきなりだきすくめられて、外

國人らしい、大へんはげしい接吻を

されたことのある、その街通りであ

る。さう言へば、あの若い水兵の情

熱的接吻の舌ざはりが、いまでも、

ときどき僕の舌のうへで賞美されて

ゐることがある。あの頃は僕だつて

いろが大へん白くて、頬がゆたかで

マドロスをうつとりとさせるほど美

しい風貌を持つてゐたものだが、今

はもはやその頃のおもかげだにない

 けふ横濱へ行つたついでにそこへ

よると、彼は非常に美しい顔に、商

賣的微笑をうかべ乍ら、ふだんの吃

音に似ず――まいど、ありがたう。

――とか、――二十五錢です。――

とか言つて、ソーダ水のパイプを忙

しさうに握つてゐる。詩人にはふさ

はしい商賣だから大へん機嫌がよい

やうである。だが、その仕事のため

に彼は――詩人の思ひ出――の續稿

を書けないさうである。僕は彼のあ

の勇敢なる生ひたちの記を大へん愛

讀してゐるので休載を殘念に思ふが

原稿生活者でない彼にむりを言ふわ

けにもゆかない。そこで一回だけ原

稿かきを怠けることをゆるして、そ

のかはり彼に爽快なる、横濱消息一

篇をかいてもらつたわけである。

        (菊池與志夫)

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◇横濱消息

   品 川  力

 朝の配達を濟ませてから、貴君か
ら敎はつた、山下町の海邊の景色の
いいところに行つてきたところです
それから病院を見舞つて歸ると、皿
洗ひしたり、アイスクリームを製造
したり、なにしろ午前中はいそがし
くて讀書は出來ません。
なんといつても勞働のあとの讀書
はとても氣持がいい。ところが東京
からくるときにモーデル博士の「戀
愛と文學」と、貴君から借りた内村鑑
三宣誓の「約百記講演」と、この二册
だけしか持つてこなかつたものだか
ら、これを讀むと他に何んにもない
 チヱスタートンの帝國主義と文藝
とを論じた論集「防禦者」だの「ポオ
の詩集」を持つてくれば、だいぶ飜
譯が出來るんだがなあと、ひとりで
くやしがつてゐます。
 博士モーデールの筆になる「戀愛
と文學」は再讀三讀したものです。
いつか僕が讀んで感服した松村武雄
博士の「異端者の對話」といふのは、
殆んどこの書に依つて書かれたもの
です。
 またモーデルはフロイドからイン
スピレーションを得てこの書が成つ
たのだから、フロイドの精神分析法
は是非讀んでみたいと思つてゐます
 昨夜貴君とつれだつて伊勢佐木町
の古本屋をひやかしても、ほしい本
が一册もないのだからなさけない。
もつとも、モルガンの「古代社會」
の上下はほしかつたが、こちらの奴
らは古本の相塲を知らぬもんだから
話せない。
 いい本が讀める讀めないはとに角
として、こちらにくると、ふだんの
吃りに似はずつらつら言葉がでるの
で、筆談用のメモなんぞはちつとも
つかはない。言ひたいことをなかな
言へないほど苦しいことはないか
らね。これなどはロンブロゾオに言
はせると「風土の天才に及ぼす影響」
とかいふことになるんだね。
 面白いことには主人ますたーのK氏がひど
い吃りで、言葉が出ないで口をもぢ
もぢさせてゐると、僕があれですか
これですかといふと「ウン、そ、そう
だ」といふ。よくあたる。そこへもつ
てきて、僕が喋れないでメモなんぞ
を取り出したら、それこそほめた圖
ぢやないからね。だからあんまり吃
れない。
 それからタイムスの「詩人の思ひ
出」ですね。あれは「日曜學校時代」
(3)を書きかけて、こちらにきたも
んですから、それに草稿も東京にあ
るので、こんどは載せることが出來
ない。あんなものはみんな書き飛ば
したもので、勿論「非藝術品」とカッ
コするものですから、その積りで讀
んでもらひたいのです。
 こんどは話が違つて――ここに來
たらよく夫婦喧嘩を見なけりやなら
ん。それが實につらい。そんな時は
仲裁したくとも胸がどきどきして言
葉が出ないのだから悲痛なものです
 こんなことを書き續けたら切りが
ないから、これで切上げます。
 では、パピニイの自傳と、モルガ
ンの「古代社會」と、ジャパニズ、パ
クウニンの全集をよろしく願ひます
(八月十一日)

(越後タイムス 大正十四年八月十六日 
       第七百十五號 二面より)


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#モルガン #古代社会



       ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵

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