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燈 臺 船 (六)

 私だちが―罪と罰―をみたのは

四月の或る晩であつた。その歸り

途で私の友だちの品川力君がれい

の彼いち流の藝術的吃音で、―殺

すところが平凡だな。ちつとも凄

くないな。―と私にいきなりはな

しかけたが、全く彼の言ふとほり

である。あの映畫には彼も私も相

當に感激させられながら、どこか

ぴつたりしない或る不滿足な感じ

を持つてゐるのだ。

 それから暫らくたつて、私は野

瀨市郎君と日比谷公園の花畑のべ

ンチに腰をかけて、暮れてゆく晩

春の靜けさにひたり乍ら、この話

をしたことがある。彼は私のたど

たどしい話を默つてきいて呉れて

から私に―それは君がドストエフ

スキイの小說「罪と罰」を愛讀した

ひとりだからだ。若しそれを讀ま

ないひとが、あの映畫をみたとす

れば、やはりずゐぶん感心するに

ちがひないと思ふが。―と言ふの

であつた。―なるほど、それもさ

うだな。―と私も彼の言葉に同意

したわけである。そして、ゆめを

みることを好きな私だちは、微風

にわづかゆれてゐる夕やみのチュ

ウリップの花を呆然とみつめ乍ら

―「カリガリ博士」はいゝな。「ゲニ

―ネ」はいゝな。「ドクトル・マブ

ゼ」さうさう、あのクロインロッゲ

の、クローズアップをみただけで

我われはきちがひになりさうだが

あの鼻。あの眼。あの顔。・・・―

といふやうなことを、ぶつぶつひ

とり言のやうに話しあつたものだ

 ド氏の小說「罪と罰」はどう考へ

ても映畫的のものではない。だい

いち、あの作品の重心は思想であ

り、心理解剖であつて、繪畫的美

ではないからである。もとよりあ

の小說は、私の讀んだド氏の作品

のうちではいちばん渾然としたも

のだし、藝術品としての美的感觸

を多分に持つてゐる。然し乍ら、

その美はどこまでも小說としての

美であつて、繪畫的或は浪漫的美

を高調する映畫にふさはしい美で

はない。

 たとへば、ラスコリニコフが老

婆とその妹とを殺すところである

或は殺してから、階段の靴音や扉

をうち叩く音におび江るところで

ある。ド氏のその描寫は、甚だす

ぐれた心理描寫として名高いもの

である。ところが映畫ではそこが

全く類型的な表現に終つてゐる。

いつたい複雜な心理描寫を映畫で

完全に表現するのは容易なことで

はない。それは殆んど不可能なる

望みである。映畫では、感情を現

はすのにも、銳い心理を示すのに

も、たゞ表情と動作をサブタイト

ルとのちからをかりるよりほかは

ないのである。然し乍ら哀しいこ

とにそれらは、文章ほど波動的で

ないし、肉迫力もとぼしいものだ

あの映畫なども、あれで力いつぱ

いをつくしてゐるのだ。映畫であ

れ以上を望むのはむりなことであ

る。千頁にあまる小說「罪と罰」を

八千尺の映畫につくつて、同じや

うな効果をだすのはむづかしいこ

とだし、脚色もあれよりどうして

みやうもないのだ。

 こういふ風に散漫に書いてゆく

ときりがないし、また甚だ退屈で

ある。こういふと或は活動寫眞愛

好家から笑はれるかも知れないが

どうも僕は「罪と罰」一篇の映畫を

完全に賞讃するわけにゆかないの

である。撮影だつて、舞臺裝置だ

つて、出演者だつて、ずゐぶんい

ゝと思ふのだが、どうも僕にはド

氏の小說がうかんできて「罪と罰」

といふ映畫の全体の印象が、前に

あげた表現派映畫ほど素敵なもの

ではなくなるのだ。

 これは僕の期待があまりに大き

すぎたせいでもあるが、まあいは

ゞ、映畫にすべきでないものを映

畫につくつたといふことが、「罪と

罰」の致命傷であらうと僕は思ふ

ものである。

 僕はさきに、カトレンの「嘆き

のピエロ」とチャップリンの「巴

里の女性」とのストリィを書いた

が、いつたい僕は映畫のすぢなど

はどうでもいゝと思ふもので、あ

んな風なことをかくのは好きでは

ないのだ。言ふまでもないことだ

が、映畫といふものは、ストリィ

のよしあしだけでその値うちをき

めることはできないので、それは

恰ど小說や劇と同じことである。

甚だ曖昧な言葉であるが、映畫は

映畫的である、小說は小說的であ

り、劇は劇的であればいゝのであ

る。みなそれぞれに獨自の境地が

ある筈である。映畫ではだいいち

に表現の美しさといふことが大切

である。ひとくちに表現の美しさ

といつても、それにはまたさまざ

まなことがらを考へ合せなければ

ならないが、そのうちでもいちば

ん重なるものは撮影である。撮影

は映畫の新造である。ことに映畫

は繪畫にちかいものであるから、

繪そのものに芸術的美がなければ

駄目である。だから、映畫の印象

を文章で現はさうとするのもまち

がつたことで、映畫の美はどこま

でも映畫そのものに觸れて感じる

ほかはないのである。私だちを夢

みごこちに誘ふものはやはりこの

映畫の美である。僕などはた江ず

美しい夢を追ひかけてゐるもので

自分の描くゆめやまぼろしになほ

あきたらないやうなときには、活

動寫眞でもみて、その美や夢ごこ

ちに陶醉してわつかに自らを慰さ

めてゐるわけなのだ。哀しければ

泣くし、おかしければ笑ふし、凄

ければおののくのである。いろん

な理屈を言ひだせば、そうせ映畫

などといふものは甚だ他愛もない

幼稚なもので、理性などといふ冷

たい氷が心臓のかべにあつくはり

ついてゐるやうなひとからみたら

全くとるにたらない童話のやうな

ものでしかないのは分りきつてゐ

る。そんなひとには映畫は用はな

いので、映畫といふものをほんた

うによく知つてゐるのは、ゆめを

みることを好きなひとだけである

ゆめをみることを好きなひとは、

大がい好もしき詩人でまた熱情家

である。映畫だけではない、およ

そ藝術といふものは決して理屈で

はない。藝術は感じるものである

調べものなどではないのだ。骨の

こはばつた理性家などに、僕らの

ゆめがわかるものではないし、彼

らはおよそ藝術とは永遠に無緣な

る存在である。

 僕のやうなゆめの街を彷徨する

ことが好きで、詩が好きで、寂し

がりで、ひといちばい熱情におぼ

れるたちのものには、いゝ活動寫

眞をみるのもたのしみのひとつで

ある。

「嘆きのピエロ」をみると、美し

い若い戀びとたちが肩をふるはせ

て、思ひどほりにめぐまれない運

命の哀しさを嘆くところがある。

その彼らの頬をながれる水晶のや

うな泪をみただけで私は彼らの心

持にひきこまれて、彼らとともに

泣くことができるのである。

「嘆きのピエロ」は稀れにみる、

美しき感情のあふれた繪である。

それは恰もなやましき晩春の風景

である、「巴里の女性」は暗くて、

寂しくて、ひとの心臓をにぎりつ

ぶすほど銳い映畫である。それは

恰も、秋風の賦のやうに佗びしく

荒涼とした人生の縮圖である。私

は「巴里の女性」の最終の塲面ほど

寂しい映畫をみたことがない。あ

のもの靜かな風景のなかをとほり

すぎる一脈の淋しい秋風のおとが

みにしみるではないか。

「嘆きのピエロ」をみて美しい泪

におぼれた私は「巴里の女性」を

みて、言ひしれぬ寂しい泪にひた

つたのである。

(越後タイムス 大正十四年六月廿八日 
        第七百八號 六面より)


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       ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵


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