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秋 刀 魚 (上)

  (樋渡さん――僕はこんな風な
   男なのです)

 私はひさしぶりに、秋の庭に出

て小春日の陽光をあびた。

 南にひらいた私の家の庭は高い

斷崖きりぎしのま上であつた。五六年前は

そこは今ほどの斷崖ではなかつた

ゆるやかな傾斜の丘であつた。そ

の小山の裾には古い池があつて、

日が暮れきる頃までも子供達は蜻

蛉追ひに遊びふけつたものだ。池

といつても、こん/\と、底から神

秘をたゞ江た水が湧きでるほどの

ものではない。雨みづがたまつて

はけぐちがないその凹みは、水が

よどみくさつて、ひとりでに水藻

をうかべるほど古さびたのであら

う。夏の頃、幾日もひでりがつゞ

いても別に水が減ることもなかつ

た。夕暮れなどにふと垣根によ

りかゝつて池をみをろすと、その

水さびた薄暮のなかの池は、小さ

いながら氣味惡い感じであつた。

深山のうす暗い樹立にかこまれた

神泉をみるやうなもの凄い氣持が

或る日ふと私をおそつてからとい

ふものは、そのおぼろげな怖れの

感じを、自分ひとりのうちにひそ

めてゐるのが、かへつて空恐ろし

いことに思へた。

 或る日であつた。私はめつたに

行つたこともないその池のほとり

までわざ/\丘をかけ下りて、そ

こに遊びたはむれてゐた子供達に

むかつて「この池には主がゐるよ」

と、たはむれともみ江ないほども

の凄い顔をつくつてみせた。かれ

らはまつ靑になつて夕ぐれの草原

を兎ほどのはやさで逃げかへつて

いつた。

 その翌くる日から、子供たちは

日がまだ高いうちにかれらの遊び

をきりあげて、こそ/\と姿をけ

すやうになつた。私は、私の氣ま

ぐれな言葉のあたへた感動の大き

さに、却つてある恐怖を感じた。

 蜻蛉といふものは夕暮れがいち

ばん群れてゐて捕りやすいのに、

あのやうなかりそめの私のたはご

とが、子供たちの樂しみのひとつ

をさまたげたことを氣の毒に思つ

た。私は後悔の思ひにせめたてら

れて苦しかつたのである。が幸ひ

なことに、間もなくそのへん一た

いの土地を買ひとつた人があつて

地ならしの仕事がはじまつた。私

の家の庭まで高まつてゐる丘のす

そは、一日ごとにけづりとられて

トロツコは未明のうちから冷たい

ひゞきを私の朝寢の床につたへた

 或る日愈いよその池が埋められ

つといふことであつた。秋の日曜

日で私は朝はやくから庭に立つて

その仕事をみおろした。山をけづ

りとつた土をもつてみるまに池は

埋められていつた。あののこされ

た水の部分がなくなりさうになつ

たならば、きつと異樣なものが苦

しまぎれにとびだすにちがひない

――若しさういふ怪物が私の思ひ

どほりにあの池の底深くひそみ捿

んでゐたとすれば、私の空想は素

ばらしいものであつたのだ。その

時こそ私は流言を放つものではな

く、見事なる預言者である。そん

なことを、ぼんやりと思ひつゞけ

てゐるうちに、池はたはいもなく

埋めつくされてしまつた。私のた

よりない空想は見事にかきけされ

て、私は、あてどもない淋しさを

感じた。私は立派な預言者では决

してない――とたゞこれだけのこ

とを思つた。

 もうあの頃から六年ほどたつてゐる。

私はやはりその家に住みつゞけて、け

つして私の思ひどほりにはゆかない私

の人生の明け暮れを、おくりむかへし

てきた。だれも頼んだわけでもないの

に私の人生のあけぼのは、きまつたや

うに私の目を覺まし、私を氣の向かな

い仕事をさせるために追ひたてるので

あつた。

 朝飯といふものはなんのために食べ

るのであらう――朝飯を食べるから、

あさましい、あの見得坊の生氣といふ

ものが人間のからだのなかに醗酵する

のだ。その生氣が、莫迦ばかしい仕事の

方へ私を追ひたてる、傀儡師の正体で

あるのだ。朝飯を食べず、ひるめしも晩

飯をも、ひとくちも食べずにひからび

てゐたならば、いくら好智にたけたこ

の世の人形遣ひも、私を幾分でも可哀

想に思ふにちがひない。どんなちつぽ

けなのぞみでも思ふやうにななへるこ

とも出來ないやうな貧乏に甘んじ、も

はやたゞひとつの私の氣强いすがり塲

所である正義にさへも危く見離されさ

うになるやうなくさりよどんだ精神

持つて、その日暮らしに生きてみたと

ころがこの人生にこのさきどれだけ面

白いことがのこつてゐるのであらう。

たとひ私以外のひとには山ほどの面白

いことがあつたところで、それは私に

は永劫にかゝはりないものである。

 私は朝目覺めるごとに――あ、また、

不覺にも目を覺ましたのか。昨夜寢る

ときに、明日こそはどんなことがあつ

ても目を覺してやるものか。朝飯もた

べてやるものか。――さう自らの心に

確かにいひつけて置いたし、自分の心に

も、はつきりと頷いて淋しいこゑで返

事さへしたほどであつたのに、朝がく

るともう昨夜のかたい誓約などはけろ

りと忘れ果てたもののやうに目を覺ま

してゐた。そして、くる朝、くる朝がそ

のとほりであつた。

 これではいけない。なるほど睡眠と

いふものは、ほとんど沒意識のうちに

始まるものであるから、無意識のうち

に終ることは當然である。自分の心に

もないときに目覺めるのはどうしやう

もないことである。もうこの上は朝飯

をたべてやらないことだ。これだけは

自分の意志のはたらきでどうやらなし

とげられないことはあるまい。私はさ

う心にきめながらも、いつのまにか朝

飯を食べてゐた。朝飯を食べることを

拒避するのは、人生の一切に對する悲

壯な反逆である。

 貧乏にあ江ぎ、失戀を三べんもして、

しかもなほこの人生にどういふ執着か

あるのだ。人生はもう倦きあきとした。

たゞこうして生きてゐることが、もう

よほどの忍耐がいるのだ。それほどの

忍耐をして、しかも、心にもない溌溂と

したふりをして生きてゆくだけの値う

ちが、この人生のどこにあるといふの

だ。その忍耐の重みにはとうの昔にへ

しつぶされてゐる私ではないか。朝め

しなどはむろんのことだ、もう一切の

人生は、まつぴらごめんであると思ひ

つめて私は幾たびも自殺を思つた。し

かし、自らの手で自らの息の根もとを

たちきることの困難は、朝飯を拒絕す

るのとは比ぶべくもなかつた。

 こうして私は、散ざんと人生の人形

遣ひの玩具になつて、みぢめにもか細

く生きつゞけてきたのである。

 さういふ生活は去年の秋まで私

にこびりついて、私の神經を目茶

めちゃにしたが、今ではその頃の

やうな、他わいもない徒らなる反

抗は、深く私のからだの底に沈殿

してしまつたやうである。そんな

こせ/\として、氣の利かない神

經の火花を散らしたところが、どう

せ眞そこは面白くはないのだ――

私の厭世的氣持は決して吹き散ら

されたのでない。枯れくちてしま

つたわけでもない。謂はゞ、大き

く腰をす江てしまつたのである。

 三べんも失戀した私は廿四にな

つて、思ひがけない或る女と、夫

婦以上のまごゝろのかぎりをかた

ぶけるほどの戀をした。昔、美し

い女や賢こい女やに戀をした私は

向ふみずであつたのだ。失戀をす

るのは當然ではないか。さう思つ

て、始めは徒らにそれを嘆き悲し

むだけであつた私は、もう一切自

分から進んでゆくやうな戀はする

ものではないと、かたく心にきけ

たが、一方そこに自棄に近い、呪

ひの氣持も深かつたのだ。貧乏は

昔どほりであつたが、この戀だけ

は私の氣持に大へんな變化をあた

へて呉れた。

 私は廿四歳になつて始めて戀す

ることの明るさと喜びとを知つた

人間のする戀にふさはしい、大人

らしい態度で、その戀をかみしめ

てゆくことを知つた。徒らなる焦

燥やいらざる不安な氣持をさつぱ

りと捨てゝ、私は私らしく落着い

て生きてゆかなければならない。

この戀のために私の過去の苦しか

つた足跡を十分に役だてなければ

ならない。私は今こそ、どつしり

と人生の大地に、なんのひけめを

感じることもなく、足を踏みおろ

せるのだ。地を踏みかためること

は、あながち、地面を保護すると

か、歩行のためとか、さういふ實

用的な目的ばかりではない。地面

を確りと踏みつける瞬間に――あ

自分は今なんの不安もなく地をふ

みならしてゆけるのだ。決してよ

ろめいたり、さまよつたりしてゐ

るのではない。地面は今、自分が

歩くために存在してゐるのだ。―

といふことをはつきりと感じるた

めだ。その感じは愉快だ。爽快で

ある。

 私はさう考へるほどの心の餘裕

をもつて、今は生きてゐる。


(越後タイムス 大正十三年十一月十六日 
       第六百七十七號 五面より)


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※「秋刀魚(下)」は見つかりませんでした。越後タイムス678号
 (大正十三年十一月二十三日頃)をご所有の方がいらっしゃい
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