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靑年の三つの生道 (上)

◇今、世界中で人生を最も苦しん

でゐるものは靑年だ。宇宙的生存意

識の中に目覺めた靑年だ。その燃

ゆる様な自覺を、更らに、眞理と

正義とを目掛けて、擴張させ、進

展させやうとして、死物狂になつ

てもがき苦しんでゐる靑年だ。

◇一方人生を最も樂しんでゐるの

も亦靑年に相違あるまい。彼等は

何の疑も無く、あるが儘の人生を

肯定し、只、人生の靑春といふ刹

那的な特権を吸ひ貪り、享樂する

機械として、生きてゐる怠者だ。

無限なる宇宙の統一作用の流れは

人工的な神の道を說き乍ら、天國

の安樂椅子に腰掛けたがる人間の

外に、玆にも不思議なる環境を人

生に與へた。

◇『世間が切りに諸君に注入しや

うとしたいろんな迷信から抜け出

た頭を持つてゐるものとする。惡

魔などを恐れないものとする。牧

師共の長つたらしい御說法なぞを

聞きに行かないものとする』とク

ロポトキンが呼び掛けた靑年は明

かに前者に属する。

◇そして『更に又、頽廢しかゝつ

た社會の悲しむべき産物であると

ころの、猿のやうな顔をして短い

ズボンをはいて歩道を練つて行く

ところの、そして又こんな年齢で

旣に何事をおいてもの、快樂の情

慾しか持たないところの、かのの

らくら息子』(クロの言葉は、大杉

榮氏の譯された「靑年に訴ふ」に掾

つた)とは、正に僕の云ふ後者を指

すのだ。

◇そしてこの二つの正道を歩んで

ゐる靑年の中間に、僕の親友であ

宮川幸洋君の如き、「祈りによる

再生に依り、あらゆる惡に向つて

活動するは、そは實に眞理に達す

る最近道ではなからうか」と叫ぶ

基督者と、「人生は虚無だ、酒塲と

墓塲だけだ。」と、固い、冷い、石の

壁へ頭を打ち突けて、吉田 絃二郎

氏の云ふ様に、死の面前で踊つて

ゐる靑年がゐる。

◇僕は、僕の体驗から虚無主義者ナイヒリスト

を前者のグループと觀てゐる。僕

は、虚無主義者きょむしゅぎしゃが素晴らしい人間

味を湛江潜めてゐる反面を、トウ

ルゲネーフの「父と子」の主人公で

ある、バザロフの死際に觀た。大

泉黑石氏の「老子」の中で老子が說

く「道」を直觀的に理解した獄舎に

縛らるゝ男達の信念に觀た。

◇そしてこの虚無主義は、大泉氏

の說く如く、自己以外一切萬物の

否認、即ち俗に言ふ虚無ではなく

て、却つてその反對の「大いに充

實するにある」こと、即ち無爲主義

の目的とすることろは無爲そのも

のにあるのではなくて「大いに爲

す」ことであり、『宇宙の創造力の

運動の方向(即ち老子の說く「道」)

が想像の使命を果すいかなる塲合

にも全く無目的であり、無意思で

あり、無意味であり、無成算であ

り、行り當りばつたりであり、空

であり、虚であり、靜であり、弱

であり、無抵抗であり、非反逆的

であるとすれば、あらゆる物体(こ

ゝに靈魂も一つの質量ある物体と

假定する)がそれ自身の根の復歸

して靜・柔(精神的の言葉にすれ

ば謙・遜・屈・從・)の境地に到る

ならば、その物体(忘るゝ勿れこ

の中には靈魂も同居してゐる)の

赴く傾向は、靜・柔・(再び忘るゝ

勿れ、この中には謙・遜・屈・從・

の類が含まれてゐる)とは全然反

對にある。』といふ氏の結論を、僕

はその儘受入れ、且つ、甞ては僕

自身極端なるナイヒリストであり

乍ら、今は、自分の生活意識を正

義と眞理と信ずる方向へ、擴充し

進展せしめやうと努力してゐる男

であることを考へる時、虚無主義

者の肩を叩いて「親愛なる味方」よ

と呼掛け得るのである。

◇僕は常に宮川幸洋君を尊敬し、教示

を受けてゐる親友だが、基督教の說く

神を信じきつて、總てを神に始めて、

神に歸納する同氏の思想とは不幸にし

て合致し得ない男である。

◇僕は虚無主義者が「虚無」を信仰して

ゐる如く、老子の說く「道」即ち無限な

る宇宙の統一作用の根本を、僕等の神

と信ずるのだ。宮川氏は「宗教と靑年」

の冒頭に、西田幾多郎氏の「善の研究」

中から引用されて「神とは宇宙の本質」

だと書いて居られるが、これは多分氏

の誤謬だらうと思ふ。宮川氏は「宇宙

の根本」と西田氏が書いて居られるの

を、「宇宙の本質」と考へ違ひされてゐ

るらしい。(未完)


(越後タイムス 大正十一年十月廿二日 第五百六十八號 三面より)


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ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵


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