無政府主義の幼蟲(下)
『實は僕も署には居ますが、大い
に自分では大杉さんあたりの思想
は研究してゐるんです。只、政府
が變に怖れたり、氣持惡がつたり
するんです。あなたをお調べした
のも僕が刑事といふ生活上の職業
から來る、已むを得ない事情から
です。大杉さんの家へ出入りする
人々のことを只参考のために尋ね
て置くことになつてゐますから。』
僕は嘘つけと思つた。参考のた
めは笑はせる。實はそれが唯一の
壓迫手段ぢやないか、何をこのイ
ヌ奴と思つた。然しどういふもの
か、この男の顔を見てゐると、喰
つて掛る氣がしないのだ。つひ釣
りこまれて、餘計なことを饒舌つた
り、昂奮したりするのだ。それが
彼等の手なんだ。それは知つてゐ
たが、こんなときの僕の惡心も、こ
の男のお目出度い顔の前にはひと
たまりも無かつたのだ。
『つまり、大杉さんなんかの思想
は、一時代も二時代も前きに進ん
だものなんです。だから政府でも
それを、今のこの雜多な、餘り敎
養のない、民衆に吹き込まれたら
大變な弊害が起きるといふ怖れが
あるもんですからネ』
彼の云つた「弊害云々」には、僕は
又ムカ/\して來た。
『政府にはその「弊害」そのものが
どんなもんか、サッパリ解つてゐ
ないんですよ。只、自分達が谷底
へでも突落されはしまいかといふ
幼稚な、卑怯な怖れだけしかない
んですよ。いゝですか、考へても御
覽なさい。大杉氏の書くものは殆
んど全部禁止でせう。肝心の根本
問題の記述の處へ來ると、缺字だ
らけでサッパリ解が分からなくなつ
ちやふ。そこで僕等のやうな若い
好奇心の强い男は、そのかくされ
た、そして、その政府の怖れる思想
とは一体どんなものかを知りたく
て堪らなくなるのは當前の話です
僕等がプロレタリアとしての自分
の實生活の上から得た社會觀と結
びつけて自分の生活の進路を決め
る時に、根本思想の解らない、若
くは、それが僕等の体験に依り、
又は直觀的眞理として、多少感づ
いてゐることであつても、果して
その伏字の中にかくされてゐる大
思想家の血のやうな、火のやうな
眞理の言葉は何んであらうかとい
ふ大きな疑問にブッかるのは必然
のことだと思ひます。根本に解ら
ない處があるのをその儘鵜呑みに
することは、それを全然知らない
でゐるよりは惡いんです。僕はよ
りよく、より多く、より眞實に、
そして最も重大なことは、より自
由に、世界的大思想家の口から、
直接、僕の血液になり、骨になる
眞理を暗示されんが爲に、今日此
處へ來たんです。今、東京では「敎
育第一」なんかと書いた、馬鹿げ
たビラを貼つたり、變な徽章を賣
りつけたりして、敎育何んとか記
念のお祭騒ぎをやつてゐますネ。
政府がいくら力んでみた處で、あ
んな「敎育第一」にソックリあては
まることの出來る人間は、そのブ
ルジョア本位の敎育を受けるだけ
金のある人間のみです。それは極
く少數です。殆ど大多数――殊
に僕のやうな貧乏書生つぽは「敎
育第一」といふ言葉そのものは望
んでやみませんが、政府の手先共
や、お祭連中の云ふのなんか、馬
の糞より輕蔑してゐますよ。僕等
民衆は何故に高い教育を受けるこ
とが出來ないのか。それは只、今
の資本家政府であり、野蠻な軍國
第一主義國家の政府が、民衆を奴
隷扱ひにするのに都合のいゝやう
に、教育封鎖をしてゐるからです。
金がある奴、權力のある奴だけ、
劃一教育をやつて手順つけて置い
て、教育的優越を自分らの利己主
義に利用しやうとする政府の愚劣な
制策の犠牲にされるためです。政
府が眞實に民衆を愛するのなら、
今の國家制度、社會制度を默認し
ては居れない筈です。政府は民衆
愛撫の假面を被つて、民衆を操る
ことばかり考へてゐます。民衆の
御機嫌取りにやつた仕事のどれ一
つをとつても、民衆の要求にピッ
タリするものは無いんです。却而
民衆に嘲笑されてゐます。それは
政府の仕事をやる奴が、民衆でな
いからです。民衆の心を知らない
からです。それは彼等が、資本家
と軍閥に急所を握られてゐ乍ら、
一方多數の民衆をもゴマカシで行
かうとするための一時逃れの仕事
だからです。それでゐて、如何にも
民衆を救つたとか、向上さしたと
か、ヘドの出るやうな、强權振を
露出する今の政府は馬鹿です。豚
です、馬糞です。僕等のやうな、
學校へ行つて勉强の出來ない男は
自分の力で書物を讀むより他ない
のです。するとどうです。僕等の生
活の進歩を正しく暗示する思想を
書いた本は、全で、蟬のぬけがら
同然になつてしか、僕等民衆の手
には入らないではありませんか。
そこでこの政府の不合理な自由拘
束に對する僕等の反抗は、ひどい
力を增して、その潜勢力はすばら
しいものとなつて擴大してゆきま
す。そして遂に全民衆が、この信
念のもとに全的に自覺し、反抗し
結合し、奮起した時には、もう政
府なんか、灰神樂を上げて、ドツ
カへ飛んで行つちまひますよ。政
府が目先だけで、「弊害云々」から
出發した小細工的壓迫は、遂に自
分自身の咽喉笛へ喰ひつく狼を養
ふことなんです。誰れにだつて個
人の生命を左右する權利はありま
せん。僕等は國家の爲めにも政府
のためにも、その外誰れのために
も生きてゐるのではない、只自分
のために生きてゐるんです。そこ
が政府なんかには解らないんです
僕等自身の生命をより幸福に、よ
り自由に擴充してゆきたいんです
眞人間の生活意識を持つ若い僕等
が、何が眞理かといふことを確り
摑んで、勇敢に進んでゆく時に、
今の權力偶像の政府がその野蠻な
鐵條網を張つてゐることが、どん
なに僕等を苦しめるか・・・僕は原
敬を殺した中岡といふ男をこの意
味で眞人間の血が通つてゐる男と
思ひます。』
僕は一氣に饒舌立てた。疲れた。
ウンザリした。僕は何ん爲めに
この政府の手先を前に於て、昂奮
したのか解らなくなつた。僕はこ
ゝで理智を取戾した。そして話を
變へた。早くケリがつけたかつた
からだ。
『今、大杉さんの家に四五人の男
がゐましたが、あれは皆同居して
ゐる人達ですか』
彼は僕の長話を變な顔できいて
ゐたが、この僕の問に救はれたや
うに答へて呉れた。
『江ゝ、さうです。何でも此頃は
僕の知らん人が大分來てゐます。
あゝゴロ/\して了つても仕方あ
りませんが、或程度までは大いに
研究する必要はありますネ』
僕はこの「或る程度」といふ言葉
に憤慨した。併しもう先刻からの
立話で饒舌り疲れてゐたので默つ
てゐた。彼は一寸頭を下げて『失
禮』と云ひ捨て、露地の奥へ走つ
て行つた。僕は彼が大杉氏の前の
家にゐて、蜘蛛が巢に掛る虫を待
つてゐるやうに、出入りの人間を見
張つてゐる態を心に思ひ浮べ乍ら
彼の後姿を見送つた。そして、キ
ラ/\した秋の午後の日射をほか
/\と脊に浴び乍ら、本郷の賑か
な通を歩いて行つた。
もう、僕の心の中に、お七の美
しい幻はなかつた。
(越後タイムス 大正十一年十二月十七日
第五百七十六號 三面より)
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高畠華宵 「情炎」 (1932)
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