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皇室の「正統性」は絶対なのか?

日本とはどういう国か?

皆さん、それぞれの答えがあるのではないかと思います。

保守と革新」、「右翼と左翼」のような言い方があります。そのうち「保守」や「右翼」と言われる人たちは、日本という国を大事にしているというようなイメージがあります。まぁ、実際そうなのでしょう。

しかし、その人たちのなかでも、今の日本という国をどう理解しているのか?日本という国をどのように認識しているのか?ということについては、意外とバラバラなのではないかと思っています。

例えば、まず明治維新について考えてみましょう。

明治維新は、日本の若き志士たちが、命を懸けて無血革命を実現し、当時の幕府から、天皇や新政府に政治権力を移行させたという見方があるかと思います。それはそれで、間違っていないと思います。

実際、江戸幕府を倒しに向かった新政府軍は、天皇の「錦の御旗」を掲げていました。天皇の権威や正統性を大義にして、討幕を目指したわけです。

ところで、この明治維新のときに、天皇が別人にすり替わっていたという話があります。調べればいろいろと出てくる話です。一応、ここでも簡単にまとめてみます。

当時、長州(山口県)に匿われていた大室寅之助という人物が、新しく明治天皇として即位したというものです。この大室寅之助という人物は、南朝出身の人だとされています。

まぁ、陰謀論ですね。けど、少しだけお付き合いください。

昔々、南北朝時代というのがありました。しかし、南朝は消滅したとされています。今の天皇家は北朝です。その途絶えたはずの南朝の血筋を引いていたのが、大室寅之助という人物だったというのです。

江戸時代末期、黒船来航以降、外国勢力から日本に対して開国を迫る圧力が強くなっていました。当時の孝明天皇(もちろん北朝)は、開国には大反対でした。

太閤・鷹司政通(以下、鷹司太閤)と関白・九条尚忠(以下、九条関白)は、ともに内覧に任じられ政務の補佐にあたっていた。徳川斉昭の義兄であった鷹司太閤は開国論を主張したが、孝明天皇は容れなかった。3月2日(旧暦1月17日)、九条関白へ下した宸翰には「私の代よりかようの儀に相成り候ては、後々までの恥の恥に候わんや、それに付いては、伊勢始めところは恐縮少なからず、先代の御方々に対し不孝、私一身置くところ無きに至り候あいだ、誠に心配仕り候」とある。3月10日(旧暦1月25日)の宸翰には、堀田老中が上京して演説しようと開市開港は認めないし、ましてや畿内近国ではいうまでもないと述べている。
※ウィキペディア「孝明天皇」より引用

幕末、「尊皇攘夷」という言葉がありましたが、「天皇を敬い、外国人を日本から追い払う」という意味です。これは孝明天皇の意向をよく表しているとも言えます。

しかし、後に新政府の中心となる薩摩藩や長州藩は、外国を追い払うなどということが不可能であることを思い知ります。とてもではないですが、外国と戦争して勝てる状況ではないと考えるようになったのです。

そうなってくると、開国に断固反対している孝明天皇が邪魔になってきます。そこで、孝明天皇と当時の皇太子であった本来の明治天皇を暗殺し、長州で匿っていた南朝の血を引く大室寅之助を明治天皇に仕立て上げ、新政府樹立を成し遂げたというのが、このストーリーの大まかな流れです。


どうでしょう?この話、歴史小説にしたら面白そうな内容ですよね?私もそう思います。こういう内容で、歴史小説なり、映画なんかを作ったら、なかなか面白いものができるのではないでしょうか。

ところで、この話を真面目に調べれば調べるほど、笑ってられないような気がするのです。

例えば、1つには皇居前の楠木正成像です。

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楠木正成といえば、鎌倉時代末期、南朝の後醍醐天皇を奉じて、室町幕府を開いた足利尊氏と戦った武将です。今の天皇家(室町幕府側)が北朝であることを考えると、その反対側の人です。「逆賊」という見方もあるほどです。その楠木正成の像が皇居にあるというのは、ちょっと不思議です。

このことと関連して、2つ目の疑問が「南北朝正閏論」です。これは、南北朝のうちどちらが正統か?ということを問題視したものです。

明治維新によって北朝正統論を奉じてきた公家による朝廷から南朝正統論の影響を受けてきた維新志士たちによる明治政府に皇室祭祀の主導権が移されると、旧来の皇室祭祀の在り方に対する批判が現れた。これに伴い、1869年(明治2年)の鎌倉宮創建をはじめとする南朝関係者を祀る神社の創建・再興や贈位などが行われるようになった
(中略)
最終的には『大日本史』の記述を根拠に、明治天皇の裁断で三種の神器を所有していた南朝が正統であるとされ、南北朝時代は南朝が吉野にあったことにちなんで「吉野朝時代」と呼ばれることとなった。それでも、田中義成などの一部の学者は「吉野朝」の表記に対して抗議している。
※ウィキペディア「南北朝正閏論」より引用

私たちが教わっている歴史から考えたら、北朝が正統のはずなのです・・・が?何故か、明治維新を境に南朝が正統とされているのです。

何か不思議な気がしませんか?

しかし、このように南朝が正統であったという議論があったことを踏まえると、楠木正成像が皇居の前にあるのも納得できます。

3つ目は、「江戸」が「東京」になった経緯です。皆さん、当たり前のように「東京」という地名を使っていると思いますが、「東京」って何だとお思いでしょうか?

「そりゃ、明治時代になって、江戸が東京になったんだよ」くらいに思っている?そう、たしかにそうなんですが、ただ江戸をモダンな名前にしたというわけではなさそうです。

実は、今も日本の都は京都です。これについては、ウィキペディア「東京奠都」の記述をご紹介しておきます。

東京奠都(とうきょうてんと)とは、明治維新に際して江戸が東京と改称され、都(首都)として定められたこと。京都との東西両京としたうえで、慶応4年7月17日(1868年9月3日)に江戸が東京と改称され、同年9月に元号が明治に改められ、同年10月13日に天皇が東京に入り、明治2年(1869年)に政府が京都から東京に移された。遷都と奠都の用語の違いについては後述する。
(中略)
「東京奠都」と「東京遷都」の語の使い方を巡っては議論がある。一義的には「奠都」は都を定める事を表すのに対して「遷都」は都を移すことをいうが、天皇や政治中枢の移動を伴えば実質的にはほぼ同じ意味であり、この場合、旧都を廃することを含んでいるかどうかが論点となる。
※ウィキペディア「東京奠都」より引用

つまり、今日に至っても、京都と東京が、それぞれ両方とも日本の都になっているのです。

それは当時、東日本の情勢が不安定であるため、天皇が京都から江戸に居を移したことから端を発しています。そしてザックリ言うと、天皇がそこ(江戸)にいるのだから、「江戸も京である」とのことで、「東の京」・「東京」と改称されているのです。

興味深いのは、江戸に移る前、大阪奠都まで検討されていることです。京都から大阪って・・・そんなに近くで、天皇が移る必要ある?と思いませんか?私は、違和感あります。そこには、「天皇をとにかく移したい」という意図を感じてしまいます。

いやしかし、仮に天皇が別人にすり替わってしまっていたら?

そうだとしたら、多少近場であっても、とにかく天皇を移動させないといけないでしょう。すり替わった偽天皇が、京都の御所にいてしまっては、周りにいる公家や宮仕えしている人々にバレてしまいます。そう考えたら、東京奠都の理由となった東日本の情勢云々は、後付けの言い訳である可能性があります。

こう考えると、日本で代々続いている天皇っていったい何なんだ?という気がしてしまいます。

室町時代からずっと時代が下って、いきなり「南朝の血を引く」とされる人物が天皇だなんて言われても、その間の血統、本当に大丈夫かよ?とツッコみたくもなります。そう考えたら、天皇や皇室の正統性なんて、どこかに吹っ飛んでしまうように思うのです。

別に今上天皇を否定しようとは思いません。ただ、日本という国家を考えるとき、外すことができない「天皇」という存在について、私たち日本人は、きちんと知っておくべきことがあるのではないかと思うのです。

幕末から明治にかけて、薩長・新政府側にはイギリス幕府側にはフランスがついていたというのは有名な話です。もし、天皇にまつわるこのあたりの問題について、外国勢力まで関わっているとしたら、日本という国を大事にしている「保守」や「右翼」と呼ばれる人たちですら、そうした外国勢力に利用されているのではないかと思えてならないのです。

例えば、右翼の超大物鹿児島県出身の人だったり、、、こういうことまで含めて、「保守」や「右翼」とは何なのかを捉えておくことは、重要ではないかと思うのです。

「日本という国が好き!」だけでは、済まない可能性があります。

私としては、そうした問題意識があるがゆえに、そもそも日本がどういう国なのかを明らかにすることが重要であり、そのために日本古代史の謎を紐解いていくことが大切なのではないかと思っています。

一旦、今回は問題提起までにしておきます。信じるか信じないかはあなた次第です(笑)。



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