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神武天皇の正統性

初代・神武天皇は、日向(宮崎)で生まれ育った人物です。宮崎には、天孫降臨でも有名な高千穂があります。日本神話に出てくる地名としても、抜群の知名度があります。

ところで、現実的に歴史的観点から、この地に政治的・軍事的・文化的な意味合いがあったのかについては、少し真剣に考える必要があるのではないかと思います。何の背景もなく、神話で語られるからという理由だけで、ただ「高千穂に重要な意味があった」と受け入れるのは、少々、安易に過ぎるのではないかと思うのです。

私は、その背景を説明するために、神武天皇と応神天皇の同一性について、注目したいと考えています。この宮崎にいた神武天皇と、同じく九州繋がりで宇佐八幡宮を総本宮として祀られている応神天皇との同一性については、既に別記事で述べている通りです。

古事記や日本書紀(記紀)に記されている内容を額面通りに受け取れば、神武天皇が初代、15代天皇なので、まるで違う時代の人物ということになります。当然、この二人に「九州」という共通点があるからといって、この二人を同一視するのは無理があると思われるでしょう。

しかし、記紀の記述は、空想のような神話の世界を描き出しています。いわば歴史の粉飾です。このような記述をしている背景には、そのなかに本当の歴史を隠すための暗号が組み込まれているとみるべきです。そして、そのストーリーには一人の人物を複数のキャラクターに分けてみたり、複数の人物をひとつのキャラクターに押し込んでみたり、時間軸をすり替えてみたりという書き換えも起こっていると考えてよいと思います。

これらの辻褄を合わせるための論理構成全体を説明するには、まだいろいろと書かなければいけないと思うので、ここでは神武天皇が大和に入る「神武東征」に焦点を絞って、まとめてみたいと思います。

初代・神武天皇は、生まれ育った日向(宮崎)を出発して、大和に入ります。この行程が「神武東征」と呼ばれるものです。既に別記事にまとめている通りですが、この征服劇は言うほど勇ましいものではありませんでした。

むしろ、敵方の裏切りなどによって、勝利を得ていく展開が多くみられます。その様子が顕著なのが、長髄彦(ナガスネヒコ)との最後の戦いです。

これまで大和の地を治めていたのは、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)でした。長髄彦は、その饒速日命の部下にあたります。その最後の決戦に関する部分について、ウィキペディアでは次のように記述されています。

長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雨氷(ひさめ)が降ってきた。そこへ金色の霊鵄があらわれ、磐余彦尊の弓の先にとまった。するといなびかりのようなかがやきが発し、長髄彦の軍は混乱した。このため、長髄彦の名の由来となった邑の名(長髄)を鵄の邑と改めた。今は鳥見という。長髄彦は磐余彦尊のもとに使いを送り、自分が主君としてつかえる櫛玉饒速日命(物部氏の遠祖)は天神の子で、昔天磐船に乗って天降ったのであり、天神の子が二人もいるのはおかしいから、あなたは偽物だと言った。長髄彦は饒速日命のもっている天神の子のしるしを磐余彦尊に示したが、磐余彦尊もまた自らが天神の子であるしるしを示し、どちらも本物とわかった。しかし、長髄彦はそれでも戦いを止めなかったので、饒速日命は長髄彦を殺し、衆をひきいて帰順した。
※ウィキペディア「神武東征」より引用

ここでいう「磐余彦尊」というのは、神武天皇のことです。

このストーリーをもう少し嚙み砕いて説明すると、以下の通りとなります。

1.長髄彦の主君饒速日命は天神の子である。
2.長髄彦が神武天皇に「お前は天神の子ではない、偽物」と言った。
3.しかし、神武天皇も天神の子である証拠を見せてきた。
4.証拠が本物だと分かったのに、長髄彦は神武天皇と戦い続けた
5.長髄彦の主君・饒速日命が長髄彦を殺して、神武天皇に帰順した

こうして最後の戦いは、長髄彦の主君・饒速日命の裏切り(?)によって、神武天皇に勝利がもたらされたのです。ここで最も注目したいポイントは、何故、日向からやってきた神武天皇が天神の子の証拠を持っていたのか?という点です。そして何故、饒速日命は部下である長髄彦を殺してまで、神武天皇に恭順したのでしょうか?

これには、神武天皇が日向から来るとき、既に彼に正統性があったと考えられます。その正統性とはいったい何でしょう?

ちょっと横道に逸れる可能性がありますが、ここでもうひとつ気になる人物を紹介したいと思います。それは大田田根子という人物です。

大田田根子は、記紀では、崇神天皇の時代に登場する人物です。この時代、国には疫病が蔓延し、民に多くの死亡者が出たとされています。土地を離れる民が出たり、叛逆する者も出始め、国が荒れてしまったようです。

これに困った崇神天皇が占いをしたところ、大物主大神(おおものぬしのみこと)が現れて、大田田根子という人物に自分を祀らせれば、立ちどころに国は平穏を取り戻すだろう、と出たとのことです。

「天皇(すめらみこと)、復(また)な愁(うれ)へましそ。国(くに)の治(をさま)らざるは、是(これ)吾(わ)が意(こころ)ぞ。若(も)し吾(わ)が児(こ)大田田根子(おほたたねこ)を以て、吾(われ)を令祭(まつ)りたまはば、立(たちどころ)に平(たひら)ぎなむ。亦(また)海外(わたのほか)の国(くに)有(あ)りて、自(おの)づからに帰伏(まうしたが)ひなむ」 (天皇よ、そんなに憂えなさるな。国の治まらないのは、吾が意(こころ)によるものだ。もしわが子大田田根子に、吾を祀らせたら、たちどころに平らぐだろう。また海外の国も自ら降伏するだろう)-訳・宇治谷孟
※ウィキペディア「大田田根子」より引用

これ以降、とくに大田田根子が物語に登場することはありません。ある意味、謎に包まれたままのエピソードではあります。

ただ、このエピソードには、それまで国を治めていた饒速日命が、部下である長髄彦を殺してまで、神武天皇に国を譲った理由について、ヒントがかくされているように思うのです。

つまり、饒速日命の力では、(疫病か?叛逆か?)国が平穏に治まらずもうひとつの貴種(正統性を持った人物=神武天皇))によって、国を治めるしかないということを、饒速日命自身が認めていた可能性です。

饒速日命は、もうこれ以上自分では国を治めることができないことを知っていたからこそ、もう一人の正統性ある人物である神武天皇に国を譲ったのではないかと考えられるのです。

その神武天皇の正統性とは何でしょう?

仮に神武天皇=応神天皇と考えると、謎は氷解します。もしかしたら、同一人物ではなく、応神天皇から少し代を下った人物が、神武天皇なのかもしれません。

いずれにせよ、神武天皇が根っからの九州土着の人物ではなく、元をたどるとヤマト王権の「武内宿禰-神功皇后」から生まれ出ていたと考えると、長髄彦に天神の子である証拠を示せたことも説明できるわけです。

もう少し踏み込んでいえば、神武天皇という和風諡号に「」が入っている意味は、武内宿禰との関りを示している可能性すらあります。日本の古代豪族の代表格として語られる、「蘇我と物部」ですが、武内宿禰が「蘇我の祖」であるのに対し、饒速日命が「物部の祖」であるのも興味深いところです。

いずれにせよ、初代・神武天皇という人物を、何の歴史的考察もしないまま、ただ「高千穂に降り立った神様の子孫」と考えるより、もう少し踏み込んだ記紀の解釈が必要だと思うのです。

神武天皇には、既に大和の国を治めていた饒速日命ですら、その正統性を認めてしまうほどの根拠があったのです。その理由を真剣に考えれば考えるほど、記紀に含まれている暗号は、巧妙にできていると考えなければいけないように思います。






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