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『文活』運営メンバーの、はんぶんの想い

今月からあるメディアの運営にたずさわることになった。

それは、ノベルメディア『文活』のことだ。ざっくりいうと、noteの小説家たちが、毎月小説を持ち寄ってつくる文芸誌をおとどけする活動をしている。すこしでも気になったらこの記事を読んでほしい。手前味噌ではあるが、すてきな取り組みであると自負している。

文活の運営メンバーは、noteのなかではたらいているなみきかずしさんと、よもぎである。何を隠そう、文活の運営陣はたったふたりだ。もはや陣と呼んでいいのかさえわからない。

なみきさんはぼくとは対照的に、一度火がついてしまうと仕事が早い。

たとえば、ぼくは「書く」のが遅い。そのため文活から投稿する記事も、なみきさんが1時間あれば書けてしまう記事を、ぼくはへいきで3時間ぐらい時間をかけてしまう。

Twitterの『文活』アカウントの投稿でも、読者におしらせする内容をどう伝えるかのシンキングにぼくが5分間を費やすのであれば、なみきさんは1分ほどで考えてしまう。

ぼくが生きている時間の1/3の時間で彼は物事をこなしていく。クリストファー・ノーランの目ん玉も飛び出そうな時間のバグだ。無論、いちばん驚きたいのはぼくである。

文活の運営ミーティングでは、なみきさんはアイディアマンであるため次から次に喋るが、ぼくは嫌なご意見番みたいに「うーん」とか「なるほどねい」と、相槌をうっているばかりだ。

LINEやSlackの返信もなにかと速い。フィードバックはわかりやすく、提案の筋も通っている。こういう人ができる大人と言われるのだろう。やがて、ぼくに運営の役目は務まるのか、そういう後ろめたさを感じるようになった。

はたして、運営のはんぶんとしてぼくにできることはあるのか、というのが二か月前のきもち。
しかし、『文活』はこのふたりではじめてよかった、というのが今のきもち。

桜林直子(サクちゃん) さんの『世界は「夢組」と「叶え組」でできている』を読んだとき、ぼくは自分を「夢組」だと信じて疑わなかった。
10代のうちから、たくさんの夢を追いかけてきた。叶った夢/叶わなかった夢の両方が、ぼくの過去には落ちている。

なみきさんが文活を一緒にはじめないかと打ち明けてきた9月のある夜。ぼくはこうツイートした。

自分で発起できるから夢組ではあるんだけど、皮肉なことにあんまり個人種目が得意じゃなくて、チームで取り組むのはすきだからもしかしたら叶え組の側面もあるかも。チームとして夢を掲げて、それが己の生きがいに重なるなら、おれはいくらでも叶え組になれる気がする。

「個人種目が得意じゃない」というのは、大学受験でかなり苦しんできたから。「チームで取り組むのはすき」というのは、学生時代から周りの仲間となにかをやることがすきだったから。

そういえばストレングス・ファインダーの最上位の資質も、「親密性(他の人たちとの緊密な関係を楽しむ。目標達成のために友人と努力することから、大きな満足感を得る。)」だった。ぼくは仲間となにかをすることがほんとうにすきみたいだ。

なみきさんからお話をいただいたあの夜。ふたりでちゃんこ鍋をつつくには汗ばんでしまうほど、ぼくは新しい長袖のシャツを下ろしたことを後悔した、あの、夏がまだ残っていた夜。
眠りにつくとき、上を向いたきもちしか湧いてこなくて、興奮ですぐには眠れなかったのを覚えている。

なみきさんの挑戦がうまくいくように、ぼくも力になりたいと。

いわば、自分で決めたことに夢中になれる夢組だったはずのぼくは、なみきさんのおかげで自分の叶え組の側面にも気づいたのだ。

そして今日まで文活は運営できた。

それは、文活発足の原点である、なみきさんの想いが魅力にあふれていたことが一つ。
もう一つが、ぼくとなみきさんが似ていなかったこと。

なみきかずしという人は、すべてをもっている人だと思っていた。

「すべてをもっている」というのは大げさな言い方かもしれないけど、ぼくの思い描く大人、あるいは人間としての魅力がこれでもかというほどつまっている人として、ぼくの目には映っていた。

ぼくからみたなみきさん。教養にもとづいた頭の回転は速く、物事をするどく思考する。そもそもの着眼点や発想力がゆたか。頭のよさのみならず、たっぷりのユーモアがあって、好感のある人柄。

ぼくにないものを「すべてもっている」人だった。

ところが、なみきさんは自分のことをこう言っている。

ぼくは考えすぎてしまうところがある。そしてスマートにかんがえたりとか、むだのないうごきをしたりとか。それが苦手だ。
だから、いろいろやりたくなってしまうくせに、考えることが荒削りで、ちょっとあぶなっかしくもなってしまう。
今回のいろいろな進行も、めちゃくちゃいろんなひとにききまわってしまったり、お願いをしてしまった。だいぶ、ださかったと思う。

ぼくが思っているよりもぜんぜんスマートにうごくひとではなかった。たしかにそれは、二か月間一緒に文活をつくってきて、ぼく自身も肌で感じていた。

意外とざつなところがあったり、あれこれ考えては立ち止まったり。なみきさんもこういうところがあるんだ、って。

隙のある人は好かれると言うが、人間としての隙だったり、物事に対してときおりみせるピュアなまなざしだったり、そういう人間味のあるところがみえてきて、ちょっぴり安心していた。

ぼくとぜんぜん似てないけど、なみきさんにできてぼくにできないこと、ぼくにできてなみきさんにできないこと、それを補い合えればいいと思えた。

なみきさんが大枠のアイディアを考えるなら、ぼくはその詳細をつめていけばいい。なみきさんがあぶない方向に進もうとするなら、その道で大丈夫なのかをひとこと聞ける人になればいい。

ぼくらは似てなくてよかったのだ。

このノベルメディア『文活』という挑戦は、なみきかずしの挑戦であるのと同時に、ぼくや作家の想いもはちきれんばかりにつまっています。

「生活には物語がみちている。」

このことばを聞いて、あなたはどう思いますか。

ぼくはわくわくします。一人ひとりの文脈にフォーカスが当たるようになったこの時代は、みんな自分のことを表現しようと必死です。だれかの人生と無意識に比べては、自分の人生はつまらないのではないかって。

それはあまりにも、かなしい。読者一人ひとりの生活にはストーリーがあふれていること、読者一人ひとりの物語がすばらしいこと、そのことを尊重するために文活は生まれました。

文活は、あなたの物語を大切に、あなたの生活をよくするために、物語をおとどけします。ノベルメディア『文活』を、どうぞよろしくお願いします。


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