『BEASTARS』完結に寄せて ~ありのままを受け入れる、それが異種族交流~
※ 本記事は『BEASTARS』全エピソードネタバレを含みます。
『BEASTRAS』最終巻、大団円でしたね。
最終巻読む前に全巻読み返したのですが、もう終わってしまうの・・・寂しい・・・と感じるばかりでした。本当に素晴らしい作品でした。
どう感想を書いたものかと悩んだのですが、この作品はキャラクターがみんなほんと愛らしくて大好きなので、キャラ別に思ったことを書いていくことにします。まさに雑感、という構成ですが、本作のテーマ性みたいな話も適宜織り交ぜつつやっていきたいです。では早速主人公たちから!
1. レゴシとルイ
『BEASTARS』12巻 P.156
柔と剛、光と闇。まさに表裏一体のダブル主人公でした。
肉食と草食が表面的には共存しているようで、実は裏では分断している世界。その世界の在り様に触れていく前編(高校生編)のレゴシとルイは、お互いに対するコンプレックスに苛まれていました。
ルイは草食として、肉食に抑圧されるこの世界を改革せんと突き進んでいたいましたが、ハルの誘拐で大きな挫折に直面します。自分がこれから引っ張っていこうと思っていた世界は、肉食と草食の表面的な融和を保つために、ハルの誘拐を隠蔽したのです。この世界は正しくあろうとしているどころか、むしろ裏側にある大きな歪みを保つことで、表側の平和を実現している。そして、今のルイにはその歪みを突破する力は無い。ルイはハルの救出を諦めようとします。
しかし、レゴシがその肉体を活かしてシシ組に殴り込み、ハルを救ってのけてしまいます。草食の威信を示さんとしていた彼にとって、これはどんなにかショックだったことでしょう。想像を絶する努力の上に積み上げてきた彼の信念は、肉食一匹の膂力に届かないわけです。その後彼はシシ組のボスとなり、肉食の強さを上から押さえつけようとしますが、その取り組みも長くは続きません。彼はどこまでいっても草食であり、肉食へのコンプレックスは消えないのです。
一方レゴシはレゴシで、自らの肉食性に苦しみます。彼はハルとの出会いを通して、人畜無害だと思っていた自分に、思わぬ本能があることを知ります。そして裏市との出会いは、自らの肉食性が「原罪」であるとの認識を、ますます強めることとなるのです。自分は草食と好きなように交流する権利なんてない。自分はいつでも怪物になるんだ。そういう罪の意識です。そして、その細い身体で多くの動物たちを引っ張る、気高きルイにあこがれるのです。草食コンプレックスです。
草食と肉食。その違いに苦しむ彼らを癒すものは何なのでしょうか。やはり草食と肉食という違いを、「食う食われる」という関係性をできるだけ隠蔽し、避けることが救いになるのでしょうか。あるいは、草食と肉食が完全に縁を切ってしまえば、こんな苦しみもなくなるのかもしれません。
しかし、2人の答えはその逆でした。彼らは「レゴシがルイの足を食べること」で、食殺犯人への勝利を掴み取るのです。
これはコペルニクス転回とも言うべき、コンプレックスの突破ではないですか。あんなに「食べる」ことを忌避していたレゴシが、ルイの足を食べてしまう。あんなに「食べられる」立場を忌避していたルイが、レゴシに足を差し出す。それが、彼らのたどり着いた答えなんです。この社会のように、肉食と草食のその関係性を裏市のような形で隠してしまうのではなく、レゴシの肉食性、ルイの草食性をそっくりそのまま肯定してしまう。ありのままのわたしを、ありのままのあなたを受け入れる。そうすることで、彼らは自らのコンプレックスを越えて、強いつながりを手に入れることができたのです。
『BEASTARS』17巻 P.36
前編でその答えにたどり着いた2人は、後編(社会人編)に入ると本当に頼もしい姿を見せるようになります。例えばルイの角を、シシ組が食欲を抑えるために使っていた場面。この場面において、ルイはライオンたちに角を噛まれていた「被食者」であるわけですが、ライオンたちに「ご馳走様でした!」と頭を下げさせるその風格は、もはや力のままに抑圧される者ではない。「被食者」という草食の在り方を保ったまま、強さを手に入れた姿なのです。
本作のクライマックスも同様です。ルイは、大企業の社長という社会のリーダーという立場から、裏市の存在を公共の電波で暴露、肉食と草食における捕食関係の肯定を呼びかけます。一方のレゴシはその肉体を活かし、世界の混乱を企図するメロンと戦闘を繰り広げるのです。かつて自らの肉体を呪っていたレゴシは、血みどろの醜い戦いをその肉体に引き受け、かつて力の無さを嘆いていたルイは、その草食としての威信を活かして、言葉で世界を変える。自分を肯定しているから、それぞれが自分にできることを精一杯行えるわけです。
自分のありのままを肯定すること。相手のありのままを肯定すること。異種族交流の難しさと価値をテーマに据えたこの作品がたどり着いた答えは、まさにここにあるのだと思います。
2. リズ
そういう意味で、食殺犯人であったリズの苦しみもまた難しいものでした。
リズは力抑制剤を飲まされ、そして「やさしい」動物であることを世間から強要され、ありのままの自分を出せずにいました。本当の自分を誰かに知ってほしかったのです。そのベールをめくって本当の自分を見てくれそうだったのがアルパカのテムだったわけですが、リズはテムから思わぬ肉食への拒絶の言葉を受け、そのショックのままテムを食べてしまいます。
ありのままを見てほしかったリズ。リズのありのままに向き合おうとしたけれど、リズの身体の恐ろしさを知り、反射的に拒絶してしまったテム。本作の冒頭で描かれた目を覆うような悲劇は、お互いのありのままを受け入れることができたレゴシとルイの関係性と、紙一重だったのだと思います。
3. メロン
ありのままを受け入れること。そうすることで、肉食と草食はその壁を越えてつながることができる。それが、リズとの決闘の果てに見えた前編(高校生編)の答えでした。
しかし、この答えへの痛烈なカウンターとなる存在が、本作後編で導入されます。メロンです。
『BEASTARS』18巻 P.105
メロンは象牙の密売、裏市での暗躍と様々な犯罪に手を染める悪人ですが、その正体は草食と肉食のハーフです。肉食と草食が分断しているこの社会で、彼は子供のころから草食のコミュニティにも、肉食のコミュニティにも属せず、いじめの対象となります。そして、自分をいじめていたクラスメイトを手にかけ、さらには自分の境遇に理解を示していなかった母さえも、殺してしまうのです。
そんな、肉食と草食の分断の犠牲となったメロンの存在は、肉食と草食がつながることを賛美した前編に対して、難しい疑問を投げかけることとなります。確かに、レゴシとルイは、レゴシとハルはお互いのありのままを認め、強いつながりを手に入れることになりました。しかし、果たしてそれでハッピーエンドだと言えるのでしょうか? レゴシとルイがいかに強くつながろうと、その関係性を、社会は認めてくれるのでしょうか? レゴシとハルがいかに強く結ばれようと、ハルを異種族間の結婚に巻き込むことは、その結婚に理解の無い社会の中で、ハルにつらい道を歩ませることになるのではないか? レゴシとハルの間に生まれる子供が今の社会に触れたとき、その子供は不幸になってしまうのではないか? まさに、メロンのように。この歪んだ世界で種族の異なる2人がつながることは、決して幸せを意味しないのです。
こういうことを考えたとき、この作品は前編の答えだけでは終われなくなります。レゴシとルイが、レゴシとハルがつながるだけでは、ハッピーエンドにはできない。「この歪んだ世界で、わたしだけはあなたの味方だよ」という感動的なテーゼで済ますことはできない。あなたとわたしをつなぐだけでなく、この歪んだ世界を、治癒させないといけないのです。世界に、目を向けないといけないのです。
こうして、BEASTARSの後編のテーマ性は、前編から脱皮することになります。もはやBEASTARSは、レゴシとルイ、レゴシのハルの個人的なつながりの追求に終始することはできません。レゴシは世界を混乱に陥れようとするメロンと戦い、ルイは肉食と草食の本当の意味での交流を世界に呼びかける。そして群衆は種族を越えてつながり、裏市を破壊せんとなだれ込んでいく。世界を変える戦いが描かれるのです。
というふうに、本作のテーマの射程が「個人」から「世界」へと変わっていくためのターニングポイントとなったのが、メロンだったのだと思います。非常に難しいキャラでしたが、本作はその毒にあてられることなく、メロンを越えてその物語をさらに前に進めることができたのです。
しかし、断続的に語られるメロンの境遇を見ると、言葉を失います。母の下着を外させられるシーンとか本当にぞわっときました。母の思いはずっと父にあり、彼の渇望感の奥底にあるのは、母の愛の欠如です。そして母の思いを引き受けていた父のなんと凡庸な悪であること・・・
メロンはこのままでは終わらないでしょう。最後は牢屋の中でたくさんファンレターを受け取る彼の姿が描かれています。アナーキーを唱える過激な指導者はいつだって魅力的です。そして、他者のありのままを受け入れろという声より、自分のありのままを発散していいんだよとささやく声のほうが、なんと耳ざわりもいいものです。彼が世に出たとき、彼がささやくその誘惑に耐えられるような社会ができているのか。それは誰にもわかりません。
4. ジュノ
ずっとかわいいし、かっこよかったですね。
主に前編で活躍しましたが、彼女の役割はレゴシとの対置でした。肉食の原罪性に苦しむレゴシとは裏腹に、彼女が唱えたのは肉食の強さ、優しさへの賛美です。彼女はその信念をもとに、ハルを救ったレゴシを隕石祭で祀り上げますが、「肉食」という性質との向き合い方という点でも、気になる女の子という点でも、ジュノはなかなかレゴシとかみ合いませんでした。
そして前編終盤でレゴシと同じく草食の魅力に気づいたら、レゴシではなくルイに惚れてしまいます。動き方がころころ変わって面白いですし、その自分を信じるあり方は、憧れすら感じます。最終巻の「オオカミの可愛い呪い」も最高でしょう。可愛いし、かっこいい。
5. ビル
そのジュノを抑えて個人的最推し、やんちゃトラのビルくんです。
彼、ものすごく人間らしいんです。ずっと裏市に通って肉食を続けている。一方で、演劇部の草食の仲間を「捕食の対象」とは扱わず、本気で友達として愛している。食べようとした卵がショック卵だったら、生まれたひよこを友達と育てて、俺はこれから鶏肉は食べない!!と、なんとまあしょぼい決意を宣言したりする。その、もはや「裏表」とすら言えない、割り切りきれてもいない、混沌とした行動哲学。どんなにきれいごとを言っても私たちってこういう存在なんだと思いますし、こういう存在を、同族嫌悪を喚起せず愛らしく描けてしまうこの作品が、私は大好きです。
6. ハル
『BEASTARS』19巻 P.139
最後にハルです。孤高のヒロインでした。
小さいウサギであるせいで、みんなから弱々しい庇護の対象として見られてしまう。そして、実際肉食に襲われたらひとたまりもない。そんな彼女が選んだ生き方は、唯一相手と対等になれるベッドの上で人と交わること。もう一つは、「どうせ私はいつかは食べられる存在なんだ」と自認するニヒリズムです。これは、肉食と草食が分断し、肉食が草食を抑圧する世界で彼女が独自にたどり着いた、達観した境地だったのだと思います。
そんな中彼女はレゴシと出会い、レゴシを愛するようになりますが、その愛し方にも、やはり凄みがあるわけです。裏市のウサギ肉店で、ウサギの死骸が並ぶ中でレゴシにキスを求める胆力。自らのニヒリズムがレゴシによって薄まっていくことに「ダサさ」を覚え、大学で出会ったメロンに「自分を食べていい」なんて約束をしてしまう反骨心。食べる食べられるの理を、そしてレゴシの愛を、超越したところに彼女はいるのです。
そして最終巻で描かれる、まさかの即離婚宣言。このまま結婚するだけでは、「強く心優しい男」になってしまったレゴシに自分がほだされたような関係になってしまう。それを、彼女は彼女自身に対して許すことができない。実際そういう関係だとしても、それじゃ自分の恋じゃない。相手を驚かせてこそ、リードしてこそ、ハルというウサギである。その心意気は最後まで貫かれたのです。
この不条理というか、予定調和を踏みにじる強さというか、本当に魅力的なヒロインだなあと思います。レゴシとルイが全力を挙げて倒そうとしているメロンに、勝手に「食べていい」宣言。最後の最後で、あとは2人が結ばれてハッピーエンドでしょうというタイミングで、離婚宣言というちゃぶ台返し。彼女はこの世界にも、レゴシにも、はたまた物語の都合にも決して囚われていません。ずっと自由なんです。彼女はずっと自分を自分で統治している。その強さこそ、孤高のヒロインと言ったゆえんです。
上記のとおり「ありのままを肯定する」だとか、「世界に目を向ける」とか、いろんなテーマ性を感じながら、頭をぐるぐるまわしてこの作品を読んでいました。でも、ハルはいつも突然目の前に現れては、その思考をしゃらくせえ!とふっとばしてくれるのです。そんな彼女に平身低頭平伏し、本記事の締めとしたいと思います。
『BEASTRAS』、最高の作品でした。ありがとうございました!
(おわり)
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