『新世紀エヴァンゲリオン』TV版・旧劇場版『Air/まごころを、君に』考察 ~他者の道具性~
※ 本記事は新世紀エヴァンゲリオン TV版~劇場版『Air/まごころを、君に』ネタバレを含みます。
エヴァンゲリオン、TV放映26話、そしてその完結編である劇場版『Air/まごころを、君に』を視聴しました。TV放映から約25年、今更ながら初視聴です。
エヴァンゲリオンはマンガ版だけ読んでいたのですが、もう記憶も薄れていました。そろそろ劇場版『シン・エヴァンゲリオン』も上映される(ほんとか?)とのことでこの度アニメ版を履修してみたのですが、いやあ、描かれていることの質量が単純に大きすぎる。ハンマーで頭をぶっ叩かれるような感覚を覚えました。
頭をぶっ叩かれてしまった以上、頭の中がぐちゃぐちゃです。感想として言いたいことはたくさんあるのですが、せめてこの記事で吐き出したいのは、特に劇場版『Air/まごころを、君に』で描かれる、シンジ君の自我についてです。
本作は世界の改変というマクロな事象と同時に、シンジの自我という非常にミクロなものの動きを、メインテーマとして描きます。サードインパクトが起ころうとしたとき、シンジは何を決断したのか? そもそもシンジにとって、エヴァに乗ることは何を意味していたのか? なぜ、アスカの「気持ち悪い」でこの物語は幕を閉じるのか?
そんなことについて、つらつらと書かせてください。本作の考察には既に偉大な先人が山程いるわけですが、それでも自分で語りたくなるのがオタクなのです。
1. エヴァに乗るということ
シンジはなぜエヴァに乗るのか。シンジは序盤からこの問いに直面したまま、半ば強制的に戦いに身を投じることになります。
大局的に見ればその問いに対する答えは明らかで、シンジがエヴァに乗るのは、人類を使徒から守るためです。しかし、シンジからするとこの答えには納得できません。これは当たり前の話であって、普通の中学生として過ごしていた少年が、突然謎の機関に呼びつけられて、訳も分からない化物と命を賭して戦わされる。こんな理不尽はないわけです。だからシンジが戦うには、この理不尽を緩和するような、彼にとって「納得感」のある答えが必要になるのです。
そして、やがてシンジはその「納得感」のある答えを見つけます。それは、「エヴァに乗ると父が、他人が自分を認めてくれるから」というものでした。第拾弐話で「よくやったな」という言葉を父からかけられて以来、彼は父が、ミサトが、ネルフのみんなが認めてくれるから、エヴァンゲリオンに乗るようになるのです。
しかし、それは自らの存在意義を他人に依存しているだけなのではないか? そのような問いが、すぐさまシンジに対して投げかけられます。これは第拾六話、シンジが影の形をした使徒に取り込まれるエピソードでの描写が詳しいです。他人が愛してくれるから、生きる。他人が愛を与えてくれないのなら自分の殻に引きこもり、そのことを他人のせいにする。それは易きに流れているだけでは? 甘えているだけなのでは? そう、もう一人のシンジがシンジに対して問いかけるのです。
同じ問題はアスカも持っています。シンジ同様複雑な生い立ちのアスカもまた、「エヴァンゲリオンに乗って活躍する」ことに自分の存在意義の全てを依拠させるのです。だから、使徒に敗北し、レイに助けられ、シンジに助けられたアスカは自分の価値の全てを見失い、やがて廃人と化します。
このシンジとアスカの問題は、自我が確立していないことです。もう少しわかりやすく言うなら、自分と他人の間の境界線がぼやけているということです。自分と他人の区別がはっきりとしていたら、自分を自分で立たせられることができます。自分に対して、自分で価値を付与することができます。しかし、自分と他人の境界線がぼやけている、すなわち自分と他人が一体化している場合、それはすなわち、自分と他人がくっついてようやく一つの実体として生きることができている、ということである。つまり、他人が「愛」や「評価」、「承認」を通して支えてくれるから、ようやく立っていられている。だからそこから他人を奪うと、一気にその実体にガタが来るわけです。
自分と他人が一体化しているといえば、生後の自我発達のメカニズムを説明した、フロイトの「エディプス・コンプレックス」が有名です。これは男児の説明ですが、男児は生後間もないころは自我がなく、情欲の対象たる母親との一体化を志向する。しかし、母親と愛しあう関係にあるのは赤子ではなく「父」であり、ゆえに父たる存在が、その一体化を阻害する。フロイトの言葉を借りるならば、男児は「母と同一化しようとすると、父に去勢される」という去勢不安を覚えるようになる。だから、男児は母との決別を決意し、かくして自他の境界、すなわち「自我」が発生するというのです。
この説によるならば、シンジとアスカは未だ「母」との同一化から決別できていないわけです。実際、アスカもシンジも、母からの愛を喪失しているからこそ、その苦悩に至っている。2人はまだ、母の幻影を追っているのです。
ここまで話すと、エヴァンゲリオンのエントリープラグが胎内、その内部を満たす液体LCLが羊水、電源ケーブルであるアンビリカルケーブルが文字通りへその緒のメタファーであることが、非常に効果的な皮肉として効いてきます。シンジとアスカがエヴァに乗るということは、母との同一化から抜け出せていないこと=「自我の未確立」の反復行為であるわけです。
2. 人類補完計画という「セカイ系」
そんな自我の未確立を根本的に解決しようとするのが、人類補完計画です。
人類補完計画とは、人類全てを一体化させ、単一かつ完全な生命として生まれ変わらせる計画です。作中でこの計画を目指すゲンドウ、そしてゼーレはそれぞれの哲学があってこの計画の実現に走るわけですが、上記の「自我」という文脈で言うならば、この計画は「自分と他人の境界(=心の壁=ATフィールド)を取り払い、自分と他人を一体化させる」ということです。
この計画は作中では、「愛してほしい人が自分を受け入れてくれる」という幻覚として可視化されます。日向はミサトが、マヤはリツコが自分を受け入れてくれる幻覚を見るのです。そして首謀者であるゲンドウは、ユイとの邂逅を果たす。自分は特定の他人からの愛を受けることでようやく完成するのに、その愛が欠如しているから完全体になれない。そこで、自分と他人が全て一体化すれば、それにより他人の愛は自分のものにもなり、自分は完成する。欠如していた要素が「補完」されるのです。平たくいうなら、ジャイ○ンの「オレのものはオレのもの、お前のものもオレのもの」が、「オレ」と「お前」の同一化により果されるということですね。
自分と他人の境界線があいまいで、自分と他人が一体化して初めて成り立つ実体になってしまっているから、他人の愛や承認が抜けると、自分を成立させることができない。そんな自我の問題を、シンジやアスカほどでないにしろ、日向も、マヤも、ゲンドウも、いや誰もが抱えていた。だからその問題を、全人類を単一生命化して「自分」や「他人」という概念をそもそも消滅させることで、解決する。それが、人類補完計画なのです。
そんな人類補完計画ですが、その成否は、『まごころを、君に』にて同計画の依り代がシンジになったことで、最終的にシンジの選択に委ねられることになります。「自分」と「他人」の間で苦悩し続けたシンジは、「自分」と「他人」という概念を消滅させる人類補完計画を支持するのか。それとも、それでも「他人」という存在を求め続けるのか。シンジは内省を重ねに重ねた結果後者を選択し、かくして人類補完計画は中断、失敗に終わるわけです。
この構造は、エヴァンゲリオンが「セカイ系」の始祖とされるがゆえんを物語っています。「セカイ系」は「『きみ』と『ぼく』の個人的関係性がそのままセカイの行く末につながってしまう物語」と定義されますが、人類補完計画は、自分の心に空いた「他人の愛」という穴の補完を、セカイの改変によって実現しようとしている。さらには、そのセカイの改変の成否は、シンジがこれから「他人」とどう向き合っていくつもりなのか、そんな至極個人的な姿勢によって左右されてしまう。セカイの在り方が、「きみ」と「ぼく」という第二人称との関係どころか、「ぼく」の心の在り方という、第一人称の核と直結しているわけです。
この点で、エヴァンゲリオンは単にセカイ系であるどころか、セカイ系の始祖にして、セカイ系を最も極端な形を体現してしまった作品であると言えるのでしょう。
3. シンジのどうしようもない「気持ち悪さ」
3-1. 変わらないシンジ
人類補完計画の成否を委ねられたシンジは、その中断を選択します。確かにシンジは「自分」と「他人」の間で苦悩し続けてきた。他人に愛されないから、自分に価値を見出すことができない。他人をすぐに傷つけてしまう自分には、他人とつながる資格なんてない。そう悩んできた。でも、他人という存在が全くいなくなってしまうのは少し違う気がする。やはり他人とのふれあいにこそ、本当の幸せの可能性が隠れている気がする。だから、まずは自分を確立する。そうシンジは考え、人類補完計画を頓挫させます。
にもかかわらず、シンジは再び世界に戻ったとき、隣にいたアスカの首を絞めます。「アスカの首を絞める」という行為は、作中のシンジの心象風景の中で既に描かれているところでした。シンジはその心象風景の中で、アスカに愛を、承認を求め、それを一切与えてくれないアスカを憎しみに任せて殺すのです。この行為はまさに、他人の愛がないと自分を成り立たせることができない、すなわち自我が確立していないことの証であるわけですが、そんな行為を、ここにきてシンジはアスカに対して繰り返すのです。
もっというと、シンジは首を絞めようとしたアスカに頬を撫でられ、その手を緩めます。愛を与えてくれないアスカに対する強い憎しみは、アスカからの優しさですぐに霧消していくのです。
そう、シンジは何も変わってないんです。「他人」という存在を奪われる可能性を前にしたことで、一度は自我の確立を決意したシンジは、再び「他人」を与えられるやいなや、「他人」が愛を与えてくれない憎しみを、「他人」の愛への依存を、取り戻す。
これは「彼女欲しい欲しい」と言っている男が、彼女ができた途端「やっぱり彼女いるの面倒くせえな…」とか言い出すようなもので、シンジの人類補完計画を頓挫緒させる決意は、他でもない、ただの「他人」に対する無いものねだりだったわけです。
3-2. 「他者」の道具性
シンジの姿勢について、議論をもう少し前に進めます。
シンジは自我が確立していないがゆえに、他人の愛や承認を求める。これは言い換えると、他人を「自分の成立」の手段として利用しているということです。自分にとって他人は、自分に愛や承認を与えることで自分を確立させてくれる、いわば便利な道具なんです。だから、自分に愛を与えてくれない他人は自分にとって利用価値のない、廃棄するだけのモノでしかないし、逆に言えば、自分を満足させさえしてくれるのなら、他人の働きとしてはそれで充分なんです。自分を充足させてくれるならば、誰でもいいわけです。(上記の心象風景でアスカが「誰でもいいんでしょ?」とシンジを糾弾するのは、まさにこのポイントです。)
その際たる例が、『Air』冒頭の、シンジの自慰のシーンです。廃人状態になり意識のないアスカの裸体を不意に見てしまったシンジは、その病室で、アスカの横にいるまま自慰します。これはアスカのことを思いやるならばあり得ない行為です。でもシンジにとっては、他人がどうなっていようと、その他人が自分を満足させてくれるのであれば、もうそれだけで十分なんです。だから、アスカの状況にかかわらず、アスカの裸体を見た時点で、シンジの頭の中でアスカは「一人の人間」から、「自分の性的満足を満たしてくれる、有用な道具」に変換される。そして、シンジは行為に及ぶことができるのです。
すなわち、映画冒頭の自慰シーンと、映画末尾の首絞めは、本質的に同じ行為であるわけです。自我が確立していないから、他人を道具としてしか見ることができない。まさにこの点でシンジは、この劇場版『Air/まごころを、君に』の冒頭と末尾で、何も変わっていないんです。
ここまで来ると、最後のアスカの「気持ち悪い」の解釈が可能になってきます。これは後日のインタビュー(「BSアニメ夜話 2005年3月28日放送」より)で明らかになったお話ですが、最後のアスカのセリフは当初、「あんたなんかに殺されるのはまっぴらよ!」だったそうです。しかしその台本に納得のいっていなかった庵野監督が、アスカ声優の宮村さんに、「自分が寝ている間に男が横にいてオナニーしてたらどう思う?」という旨の質問をしたら、その答えが「気持ち悪い」だった。だから、最後のセリフが「気持ち悪い」に変更された、そんな経緯があったようです。
そう、横で自慰行為をされることは、当然ながら気持ち悪い。そして、アスカの首を絞め、アスカの優しさにその手を緩める行為は、その自慰行為と本質的に何ら変わらない。だから、アスカの首を絞め、その手を緩める行為も、同様に気持ち悪いんです。ゆえに、アスカの最後の言葉は、本当に軽蔑を込めた「気持ち悪い」だった、私はそう思います。
結局シンジは、この『新世紀エヴァンゲリオン』という作品の最初から最後まで、どうしようもなく気持ち悪いんです。人類を救う英雄であり、物語の主人公もあるこの碇シンジという少年を、なんのカタルシスも、精神的成長もなく、ただただ最初から最後まで他人を道具としてしか見ることのできない、どうしようもない人間として描き切った。それが、『Air/まごころを、君に』という映画の凄みなのだと思います。
3-3. 『Air/まごころを、君に』の爪痕
私たちは常に愛を、他人とのつながりを、承認を求めています。本作放映・上映当時には存在しなかったSNSが生まれ、「承認欲求」という言葉も人口に膾炙しました。
この『新世紀エヴァンゲリオン』は、「自分」の殻に閉じこもり、他者を直視しないアニメオタクに投げかけられた強烈な批判である、と評価されることもあります。その発表から既に20年以上が経ち、私たちはインターネットによって自分の殻を破り、他者とつながることができるようになりました。
では『エヴァンゲリオン』の批判を私たちは既に克服したか、というと、実は真逆の事態が進行している。今や私たちは、ますます他人からの「いいね!」に依存するようになっている。他人に褒めてもらうために、タイムラインに自分のいいところを流すことに腐心する毎日を送っている。私たちはせっかく得た他人とのつながりを、自分の価値を示すためのステータスとして利用していないでしょうか? あるいは他人を、自分の社会的な、精神的な、あるいは性的な満足を満たすための手段にしていないでしょうか?
そんな他者への依存、他者の道具性が私たちを掴んで離さない限り、この『新世紀エヴァンゲリオン』という作品は、『Air/まごころを、君に』という映画は、たとえ何十年経とうと、それを見た者の心に深い爪痕を残し続けることになるのでしょう。
(おわり)
P.S. シンエヴァ感想も書きました。「他者の道具性」という問題意識は、シンエヴァでいかにケリがついたのか。こちらもよければぜひ!
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