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『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』とループものの収束・発散

1.成功とは言い難かった上映当時

2017年に上映されたアニメ映画、『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』 。
シャフト製作、スタッフ声優ともに超豪華、そして大規模な宣伝で華々しく封切られた作品なのですが、上映されていた当時、かなり厳しい声が多かったのを記憶しています。

曰く何がしたいのかわからない、残した謎が多すぎる、描写がイタい、終盤が意味不明、などなど…
今もレビューサイトとかをのぞいてみると、こうした意見がたくさん見つかると思います。

なぜ本作はそれほどウケなかったのか。

一つは期待値の大きさがあったかと思います。
2017年とは何を隠そう、『君の名は』大ヒット翌年です。
『君の名は。』と同じように清涼感溢れる雰囲気を感じさせ、かつ宣伝もかなり派手だった本作は当時かなり注目され、そのハードルは尋常じゃなく高いものになっていました。
これを越えるのがなかなか難しかった、というの要因の一つだと思います。

でも、最大の要因はそのラストにあると私は考えています
この作品は後述のあらすじのとおり、いわゆる「ループもの」です。
「ループもの」といえば『STEINS;GATE』や『Re:ゼロから始める異世界生活』のように、タイムトリップを何度も繰り返して過去を変え、理想的な未来を手に入れる、そんな「終着点がはっきりした」作品が多い傾向があります。
しかし、詳細は後述しますが、「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」はそんなループものの標準からすると異端ともいえるエンディングを迎えます。この点が、多くのアニメファンに受け入れられなかったポイントなのでは、というのが私の考えです。

しかし、異端というだけでそのエンディングを排するのは作品の享受者としておもしろくない。
むしろこの「ループものにあるまじきエンディング」は、私たちがループものに求めてきたものに一石を投じるものである、そう考えることもできるのではないでしょうか。

そんな話をしたいので、まずはあらすじから見ていきましょう、

※以下本映画のネタバレ注意

2.あらすじ

花火

主人公の典道は、同級生のなずなの事が気になっていました。

ある日なずなは母の再婚が決まり、この町を出て行くことになります。なずなから突然駆け落ちに誘われた典道は、夢中でなずなと逃げ出そうとしますが、なずなは母に見つかり連れ戻されてしまいます。
典道はどうにもならない悔しさから、なずなが海で拾った不思議な玉を無茶苦茶に投げつけます。すると、いつの間にか時間が前の日に戻っていたのです。

典道はこの玉の力を使って何度も同じ日を繰り返し、ついになずなと二人町を出ることに成功します。
しかし、何度も玉の力で時間を遡るうちに、二人はいつの間にか、現実との境界があやふやな、不思議な世界に迷い込んでいきます。
しまいには花火大会で、その不思議な玉が花火に紛れて一緒に打ち上げられてしまい、すると二人の周りの世界は、いよいよ非現実的な、幻想的なものに。そしてそこでは美しい花火とともに、「ありえたかもしれない幸せな日々」の情景が、浮かんでは消えていくのです。二人で何事もなく花火大会で花火を見てたり、いろんなところをデートしたり・・・ その中で、二人は初めてのキスをして・・・

そして場面が切り替わり、いきなり2学期の初日へ。
しかし、教室にはなずなの姿はもちろん、典道の姿も、ありませんでした。


3. 「ループもの」と終着点への収束

そう、「え??ここで終わり????」てなるんですよ。
なずなは結局町を出てしまったのか?
典道は学校も行かずどこに行ったのか?
それ以前にあの不思議な世界は何なのか? 
わからないことだらけです。

これを単純に「丸投げ系エンディング」と批判することもできるのですが、本作が「ループもの」であるということを考えると、このエンディングはその異様さを増します。

というのも、「ループもの」というのはその構造上、明確な「終着点」を持つものであるからです。
これは「そもそもなぜループするのか」を考えてみたら明らかだと思います。なぜ辛い思いをしながら何度も何度も同じ過去を繰り返すかというと、過去をやり直すことで、理想的な未来を掴むためです。

まゆりを救うために何度もタイムリープした『STEINS;GATE』。
レムやエミリアを救うために何度も死に戻りした『Re:ゼロから始める異世界生活』。
過去の事件の謎を解くために何度もリバイバルした『僕だけがいない街』。

だから、ループものをやるには、「大切な人が死なない未来にする」など、理想的な「終着点」が必要なのです。

ここで、いや、そうとは限らないだろう、という人もいるでしょう。
すなわち、特定の崇高な目的がなくとも、ただ「楽しい日々を何度も繰り返したい」という享楽のためにループする場合もあるのではないか、と。

これはおっしゃるとおりでして、享楽目的でループする作品も多数あります。
筆頭が『時をかける少女』でしょう。

時をかける少女

主人公の真琴は幾多のループの無駄使いの果てに、最後のループでようやく「大切な人の大切な思いに向き合う」という目的を見出します。しかし、その時にはもう、その大切な人とのやり直しの機会は残されていなかった、という終わり方でした。
ループにより目的を達成することはできなかったのです。

それでも、真琴は最後の場面で、「実は私もさ、やること決まったんだ」と力強い言葉を残してくれます。もうやり直しはきかないものの、真琴は「やること(が)決まった」、つまり「目的=たどりつくべき終着点という確かな財産を得た」、これだけは言えるでしょう。


そう考えると、ループものと「終着点」は、やはり切っても切り離せない関係にあると言えるのではないでしょうか。
幾重のループによってようやく実現できる終着点なら、何回もループしてある終着点を目指す主人公の姿が、その終着点がいかに尊いものかを示します。
あるいは、幾重のループの果てにようやく見つけることのできた終着点なら、何回もループしてようやく生きる目的=終着点を見つけて達成感に打ち震える主人公の姿が、その終着点がいかにこれからの彼彼女の充実を呼ぶものかを示します。

そう、ループものにおいては、ループの回数や苦しさが、特定の終着点の価値に転換されるんです。ループが見せるドラマが、ループの果てにある「終着点の尊さ」として結晶する。その結晶に、ループものを見る私たちは感動しているのではないでしょうか?


ここまでくると、「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」のループものとしての異常性が浮かび上がってきます。
本作は、当初「なずなと生きる」という終着点のような何かを提示しつつも、だんだんとその終着点への接近を放棄していきます。謎の精神世界のような描写が段々と多くなっていき、しまいには主人公がその終着点にたどり着いたのか、そもそもその終着点にまだ価値を置いているのか、不明確なままエンディングを迎えてしまうのです。

ループもののドラマは「終着点の尊さ」をもってして生まれるのに、本作はせっかく最初持っていたその「終着点」を自ら放棄した。

これが、「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」に対するアニメファンの拒否反応の正体だったのではないでしょうか。


4.「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」の発散


では、そんな大切なものを放棄してまで本作が描きたかったものは、何なのか。

それは、「多数の可能性の提示」ではないでしょうか。

本作は、玉を投げるという行為だけで、多数の周回がいともたやすく複製されていきます。(All You Need Is Kill、Re:ゼロから始める異世界生活などは、一回死なないとループできないというのに!)

なずなが簡単に母に捕まる回、
町を出た後に捕まる回、
母を振り切ることができた回・・・

そしてクライマックスでは花火の中にさらなる可能性が浮かび上がるのです。花火大会で花火を見てたり、いろんなところをデートしたり、様々な幸せの像が、典道となずなの前に立ち現れます。

ここで本作が行っているのは、いわゆる「ループもの」とは逆の行為です。
何か特定の終着点を提示するのではなく、あまりにたやすくループが行われ、そして花火は様々な未来の映像を典道に見せる。典道はいろんな可能性を体験していくのです。

そう、本作はループによって、特定の終着点への収束を描くのではなく、特定の出発点(=なずなとの別れ)から無限の可能性への発散を描いているのです。

このことは私たちに何をもたらすのか。

特定の終着点への着地は、私たちに感動とともに、キャラがあるべきところに収まったような「安心」を与えます。であるならば、無限の可能性への発散が私たちに与えるのは「不安」です。
より正確に言うと、私たちが普段から漠然と抱いている不安を、私たちに思い出させるのです。私たちは、将来自分がどうなっていくのか、いろんな可能性があるからこそ、不安を抱いています。改めてこの可能性の幅広さを映像として見せられると、否応なくその不安と向き合わざるをえません。

しかしこの作品は、周回の複製によりそうした「可能性の無限性」を認めた上で、「なずなと共に歩める」という素晴らしい可能性を、クライマックスで、非常に印象的で美しい映像とともに提示します。

つまり、可能性が開かれているからこそ抱ける希望を、私たちに提示するのです。いろんな可能性があることは確かに不安を覚えさせる。でも、その中には素晴らしい道もあって典道はそれを求めて一歩踏み出したが、さて、あなたはどんな道を歩むか? 
そう、私たちに問いかけてきているのではないでしょうか。

納得感のある終着点は、私たちに安心を与えてくれます。しかし、そこが終着点である以上、その先への進歩はかないません。
しかし、無限の可能性を示す本作は、不安を思い出させるものの、同時に、私たちが前に進むためのきっかけを与えてくれるのです。

特定の終着点に安心するだけでは手に入らない大事な何かが、この作品にはあった。本作に感動してしまった自分は、ひいき目ながらそう感じてしまうのです。

※ この記事は、2018年9月に別ブログで書いた記事の再編集版です。


(おわり)

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