『輪るピングドラム』雑感 ~自己実現、自己犠牲、入替可能性~

1. どのようにしたら、愛されない子どもは救われるのだろうか?

 『輪るピングドラム』TV版を全話見ました。

 一言で感想を言うならば、めちゃくちゃ難しかったです。終盤にかけて激しくなっていく、現実世界と幻想世界の描写の入れ替わり。りんごの果実をはじめ、様々な事物で示されるメタファー。一つ一つの描写を解き明かし、作り手が言わんとしていることを読み取るのは本当に骨の折れる作業でしょう。少なくとも私にはとても手に負えない作業ですし、一方で既に優れた考察が多数世に出ていますので、この点についてこの記事で深入りすることはしません。

 それでも私がこの『輪るピングドラム』について感想を文字にしておきたいと感じた理由、それはこの作品の問題意識の一つが、最近私がなんとなく考えていたこととたまたま似ていたからです。その問題意識とは、「どのようにしたら、愛されない子どもは救われるのだろうか?」という問いです。

 本作の主要登場人物はそのほとんどが、「愛されなかった子供たち」です。陽毬は親のネグレクトにあっていた。苹果は姉の死をきっかけに家庭崩壊を経験した。多蕗は才能を求める母の愛を保持することができなかった。ゆりは父の虐待を受けていた。真砂子は犯罪組織に殉じた父と別離した。皆、親の愛を受けることができず、ゆえに「何者にもなれなかった」者たちなのです。

 彼彼女らは、最終的に冠葉と晶馬の自己犠牲による「運命の乗換え」を通して、全員が救われることになります。物語の結末としてはこれでよいでしょう。しかし、それは魔法のような力で生まれた奇跡です。この作品が描きたかったところの、親の愛を受けられないという運命に囚われた子供たちは、現実ではどのように救われるのでしょうか?

 実際のところ、子どもたちが「親が愛を与えてくれない」という自らの置かれた状況を、自らの力で変えるというのは極めて困難です。確かに作中の陽毬のように、誰かが救いの手を差し伸べてくれるということもあるでしょう。しかしそういう幸運が無い場合、子供が自分を庇護してくれる存在を自分で見つけるということは現実的ではありませんし、親を説得して自分の育て方を改善してもらうというのも考えにくいことです。そうすると、子供たちは「親が愛を与えてくれない」環境に生まれてしまった時点で、ほぼ救いの途は断たれてしまうのです。

 だから、上記で述べた本作の問題意識は、こう言いなおしていいのだと思います。「どのようにしたら、愛されない環境で子どもが生まれないようできるのだろうか?」、と。

2. 私たちはなぜ、子どもをつくるのか?

 このことを考えるにあたって、この問題意識と少し似ていて、より身近な問いを設定してみたいと思います。それは、「私たちはなぜ、子どもをつくるのか?」という問いです。

 私事ですが半年前に入籍しまして、今は妻と二人で暮らしています。まわりの友人も妻帯者が増えてきまして、たまに友人と集まって飲むと夫婦生活の話になることが多くなりました。その中でもしばしば話に出るのが、「子どもをつくるか?つくるとすればいつ?」という話題です。友人たちに話を聞いてみますと、早々につくらないと宣言している人から、まだ決めてない人、来年にはそろそろ・・・という人まで、様々です。こういう話を聞いていると、私も否応なく自分事として、「子どもをつくるか?つくるとすればいつ?」を考えさせられるようになっています。

 そして、子供をつくるというのは言わずもがな重大なことですので、このとき私はより根源的な問いに直面せざるを得ません。それが、「そもそもなぜ、子どもをつくるのか?」という問いです。

この「なぜ、子供をつくるのか?」という問いかけをすることができるというのは、非常に現代的な事象だと思います。一昔前なら、男は結婚して子供をつくり、しっかり働いて家族を養うのが一人前。女は結婚したら家庭に入り、子供をつくって育てて家庭を支えるのが一人前。普通の生き方というのはある程度固まっていて、そこには当然のように子どもの存在があった。だから、「なぜ、子供をつくるのか?」なる問いというのはあまり表面化しなかったのではないでしょうか。

 しかし、現代はそうではありません。上記のような「普通の生き方」の考え方はまだ強く残ってはいるものの、どのような生き方を選ぶかはより個人の自由に委ねられるようになっています。言い換えるならば、私たちはどのような生き方にどのような意味を見出すかを、自分で選び取ることができるようになっています。だから、家族を作らずに、仕事に邁進する人生をよしとしてもいい。ひたすら趣味に生きる人生に尊さを感じてもいい。友人とともに暮らしていく人生に最も大きな価値を見出してもいい。自分の人生をどのように意味付けして、どのような方向に舵を切るのか。これは今や、個人が選んでいいことなのです。

このことは、「子どもをつくる」という選択をした場合において、「子どもをつくること」にどのような意味付けがなされるのか、という問題においても言えることです。例えば「今後の人生をともに生きる新しい家族が欲しかったから」という理由付けがありえるでしょう。「愛する人との子どもが欲しかった」でもいいでしょう。さらには、上記の「普通の生き方」を自分から積極的に選んだから、というのもあるでしょう。あるいは、「親に孫の顔を見せたかった」というのもあるかもしれません。子どもをつくる理由は、そのつくる本人に委ねられる、というのが現代的な感覚なのだと思います。

 しかし、この個人主義的な現代的な感覚は、こと「子どもをつくる」という場面においては、なかなか難しい問題をはらんでいるように思うのです。それは、「子どもをつくる」ことの理由付けにおいて、作られる「子ども」自身が不在であることです。

 自分の人生をどのように意味付けして、どのような方向に舵を切るのか。これは今や、個人が選んでいいことである。先ほどこう書きましたが、これは生まれてくる子どもにも言えることです。だとすれば、子どもの人生の出発点は価値中立的であるべきです。子どもの人生は子ども自身で色づけていくのだから、子どもの人生が最初から特定の色に染まってはならない。そういうことが言えるのだと思います。

 しかし、子どもはどうしようもなく、親の「子どもを作る理由」を背景にして生まれてきます。そしてその理由は、最初期は特に無抵抗である子どもの成長を、どうしようもなく特定の色に染め上げていってしまうのではないでしょうか。この懸念は、今話題の宗教2世の悲劇ですとか、『輪るピングドラム』で描かれる子どもたちにおいて、最もわかりやすく露見していることでしょう。また、そのような極端な例ではなくとも、例えば「愛する人との子どもが欲しかった」との意味付けの下に生まれた子どもは、愛する人と似ているところを強調されて育てられるかもしれません。あるいは「愛する人が欲しかった」との意味付けの下に生まれた子どもは、親にとっての「愛らしい対象」としての性質を強調されて育てられるかもしれません。そこで子どもの人生は、相当の程度で方向づけられてしまうのです。

 親はこうした育て方を、子の人生を歪めてやろうという悪意をもって行っているとは限りません。むしろ多くの親は、これを「自分が子どもにできる最善の育て方」ととらえているのではないでしょうか。『輪るピングドラム』から引用するならば、例えば多蕗の母は才能を愛していたからこそ、多蕗の才能を開花させようとする。「愛する人との子どもが欲しかった」人は、愛する人と同じような人になれたら、その子も素晴らしい人になるだろうと考えて、子どもをそのように育てようとする。「愛する人が欲しかった」人は、愛らしい子どもになればその子どもにとって幸せなことだろうと考えて、子どもをそのように育てようとする。それは、親が自らの「子どもを作る理由」を背景にして自らが導き出した、子供たちへの「愛」なのです。

だとすれば親の「愛」は、子どもの人生と緊張関係にあるということになります。親の自由と子どもの自由との間にはトレードオフの関係性が生じ、両者の間には何らかの調停が必要になるのです。これが、「私たちは自分の人生を自ら決定づけることができる」という考え方を愚直に推し進めたときの、「親の愛」にまつわる帰結です。

3. どのようにしたら、愛されない環境で子どもが生まれないようできるのだろうか?

 ここまでお話を進めた上で、再び『輪るピングドラム』の問題意識に立ち返ってみましょう。この作品が問いかけは、子どもの無力さを考慮して翻訳するならば「どのようにしたら、愛されない環境で子どもが生まれないようできるのだろうか?」というものになる、というお話でした。

 しかし、私たちが「子どもをつくる理由」を自ら決定するとき、親の愛は、むしろ子どもの人生を侵害してしまうことがあるのです。これが親の愛の真相であるとするならば、「どのようにしたら、愛されない環境で子どもが生まれないようできるのだろうか?」という問いはそもそも成立しないことになります。親の愛が子どもの人生を侵害するのなら、子どもにとっては、むしろ親の愛から遠ざけるほうが望ましいのですから。

だから『輪るピングドラム』の問題意識に回答するには、「親の愛」の定義をアップデートする必要があるのだと思います。「自分の人生の意味付けは自分でできる」という現代の自由論は素晴らしいものです。しかしこの『輪るピングドラム』においては、この自由論とは別の倫理をもって、「親の愛」の何たるかを再定義しなければならないのです。

 その再定義にあたって手がかりになるのは、先ほどの議論にあった「子どもの人生の出発点は価値中立的であるべき」というお話でしょう。自由論とは別の倫理を引き出す必要があるにしても、子どもの人生の幸福の根拠を「子どもがその人生を自由に決定できること」と定義すること自体は、覆してはならないものだと思います。であるならば、「親の愛」の条件とは、子どもを、親が設定した「子どもをつくる意味」から守ることである、ということになる。親は子どもに向き合うにあたって、子どもに向き合うための自らの動機の全部または一部を、切断しなければならないのです。

 これは親にとっては非常に難しいことです。子どもを育てるにおいては、今まで自分のために使っていた時間のほとんどを、子どもに注ぐ必要があります。にもかかわらずその営為において自らの人生の意味を捨てろというのは、大きな自己犠牲とも言えるでしょう。

 しかし実はこの議論こそ、『輪るピングドラム』にとっての答え合わせなのではないでしょうか。その自己犠牲こそが他でもなく愛である、『輪るピングドラム』はそう主張しているのですから。最終話でついにその正体を現したピングドラムは、かつて冠葉が極限状態の中で、餓死の危険を冒して晶馬に差し出した半分のリンゴであり、そして晶馬が消えゆく冠葉に対して、自らの命を削って返した命の火でした。そしてその果実を「一緒に食べる」ことを苹果が宣言することで、運命の乗換えが達成される。自己を削って相手に与えることを、一緒に互いに行う。そうすることで、人は運命を乗り越えることができるようになる。これが人間の、生存戦略なのです。

 であるのならば、「どのようにしたら、愛されない環境で子どもが生まれないようできるのだろうか?」という問いへの答えは自明です。親は子供をつくるとき、それが自己実現ではなく、自己犠牲であることを認識しなければならない。「子どもをつくる」ことの意味付けを自分で行うこと自体はよくとも、同時にその意味付けが実現されないものであることを、親は認識しなければならない。これが、『輪るピングドラム』の問いかけに対する『輪るピングドラム』自身の答えなのではないでしょうか。

 そして、本作はこの答えを、親にとっての不幸としてとらえません。親が子をつくり愛するということの美しさは、この自己犠牲にこそあるのだと。それが、親として生きるということなのだと。そういう、「自分の生き方は自分で決める」という自由論とは別の倫理を、この『輪るピングドラム』は提示しているのだと思います。

4.  自己犠牲という自己実現

 この倫理に対して、あなたはどう感じますか?子をつくるということの真相が自身の犠牲であるのならば、子をつくるということ自体避けるべき話なのではないか。その犠牲の末に育った子どもが結局不幸になったとしたら、それは共倒れではないか。あるいは自己犠牲の結果子どもが増長すれば、それはただの搾取ではないか。この倫理に対しては、そういう反論も多くなされることでしょう。

 しかし私は、そういう反論に共感はしつつも、少し異なる意見を持っています。私たちはもう少し、自分の人生の意味付けにおいて、「与える」という行為の意義を思い出してもよいのではないか、と思うのです。

 私たちが自分の人生を意味付けするとき、その意味のリソースとして、様々な要素を自分に付加しようとします。SNSで何人フォロワーがいるとか、「いいね」をいくらもらったかというような「人の注意」。好きなコンテンツを吸収したり、誰か(何か)を推したりといった「体験」。時に映画の倍速視聴等で獲得されるような、「○○(映画とかマンガとか)に詳しい」といった「知識」。私たちのまわりには、自分の人生に意味を与えてくれそうなコンテンツにあふれています。そして、まさに上記で述べたように、どのコンテンツによって自分の人生を彩るかは、自分自身で決めていい。だから、私たちが自分の人生を豊かにしようとするにあたって一番わかりやすい方法は、そんなコンテンツの分厚いカタログを手にして、その中から何か自分にとって魅力的なものを選んで、自分の人生に「足し算」していく、というものなのだと思います。

 しかし、「与える」という行為もまた、一見質素で物悲しく言える一方で、なかなかどうしてあなたの人生に強い意味を与えてくれるものなのではないでしょうか。あなたがお金持ちでないならば、与える相手はどうしても少数に限られるでしょう。しかし、だからこそあなたの「与える」という行為は、その与える相手が誰なのかという点において、この世でただ一つだけのものになるではないしょうか。あるいは、あなたが与えるものは、時にあなたにしか生み出せないものかもしれません。そういう固有性は、あなたが入れ替え不可能なただ一人の存在であることを露わにしてくれるのです。

 そしてそれは、上記の「足し算」による意味付けでは、なかなか得難い魅力です。「有名な映画やマンガに詳しい人」、「有名な誰かを推しているファン」という人生の意味付けは、あなた以外の人にもできるでしょうから。「足し算」の人生は、あなたの人生に一見豊かな意味を与えてくれているようで、実はあなたの人生は「よくある」ものになっていく。目立つコンテンツを選べば選ぶほど、あなたの人生は入れ替え可能なものになっていく。それは、階段を上っていると思ったら実は階段を下りているかのような、非常に恐ろしいことではないでしょうか。

 ここまで話が至ると、『輪るピングドラム』の唱える自己犠牲とは、前記のように「自分の生き方は自分で決める」という自由論とは別の倫理ではなく、むしろその自由論を補強してくれるものなのはないでしょうか。むしろ自己犠牲こそが、あなたの人生にあなただけの意味を与えてくれる。「与える」という引き算の人生は、足し算の人生では達成しがたい、入れ替え不可能な唯一無二の「あなた」を実現する。自己犠牲とは、強い意味で、自己実現なのです。

 もちろん、「与える」こともまた様々な問題をはらんでいます。上記でも述べたとおり、与えられる側がその贈与にかこつけてあなたを利用するなら、それは搾取でしょう。あるいは、特に若者を中心に、誰かに何かを与えられるほど時間的・金銭的に余裕がない人が増えているのかもしれません。だから、「与える」ことを標榜するには、社会的なサポートも当然必要です(まさに「子育て支援」のような)。

 その上で『輪るピングドラム』は、「足し算」による人生の意味付けの中で私たちが直面する入替可能性の罠に対して、新たな生存戦略を提示してくれる作品である、そう私は感じるのです。

(終わり)

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