![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/94944601/rectangle_large_type_2_9382d1ad2fd59a7059d359eaf9b4b68f.jpg?width=800)
2023/01/05
「勇退」という概念は人生に対して適用され辛いのかもしれない。
1on1でCさんと話したことをきっかけにそんなことを考えた。例えば、スポーツ選手がキャリアのピークや「まだやれるのに」と感じるときに辞めることがある。それが一つの美学として受け止められることもある。その人らしさを感じられたりもする。
けど、人生やいのちに対して、終わりを意思決定するのはそうはいかないように思う。本当にそうなのかはわからないけど、僕が生きてきて、今まで見てきた世界においてはそうだと思う。自分の人生のピークで人生を勇退する考え方は、顕在化していない。(そう在るのが「おかしい、ダメだ」と思っているわけではなくて、ただ「そうだったんだな、不思議だな」という風な気づきです)
一つの終わりに寂しさは残るけど、そこに美学を感じるとき、その人には何か新しい「人生」が待っているように感じる。一つの人生にピリオドを打って、また新しい人生が始まるかのように。この先を一緒に見据えられるような新しい人生がないのが、人生の勇退ということなのだろうか。でもいのちや人生が、「この人生を終えたところで終わらないものである」という考えに至ったのであれば、人生の勇退も現実味を帯びてくるのではないか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?