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2023/01/05

「勇退」という概念は人生に対して適用され辛いのかもしれない。

1on1でCさんと話したことをきっかけにそんなことを考えた。例えば、スポーツ選手がキャリアのピークや「まだやれるのに」と感じるときに辞めることがある。それが一つの美学として受け止められることもある。その人らしさを感じられたりもする。

けど、人生やいのちに対して、終わりを意思決定するのはそうはいかないように思う。本当にそうなのかはわからないけど、僕が生きてきて、今まで見てきた世界においてはそうだと思う。自分の人生のピークで人生を勇退する考え方は、顕在化していない。(そう在るのが「おかしい、ダメだ」と思っているわけではなくて、ただ「そうだったんだな、不思議だな」という風な気づきです)

一つの終わりに寂しさは残るけど、そこに美学を感じるとき、その人には何か新しい「人生」が待っているように感じる。一つの人生にピリオドを打って、また新しい人生が始まるかのように。この先を一緒に見据えられるような新しい人生がないのが、人生の勇退ということなのだろうか。でもいのちや人生が、「この人生を終えたところで終わらないものである」という考えに至ったのであれば、人生の勇退も現実味を帯びてくるのではないか。

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