見出し画像

愛でなくして何と呼ぼうか

大学1年生の春。私たちはサークルで出会った。

男子3人、女子3人。
入学したての6人は、それぞれが新しい生活を始めたばかりでどこか浮ついていたことも作用してか、すぐに打ち解けた。

各々のペースでサークルに打ち込み、何人か、もしくは皆で大会へ遠征すれば、そのついでに旅行をした。大会に限らず遠方に出かけたこともあった。

また6人全員が偶然理系だったのもあり、試験が近くなればファミレスや誰かの家に集まり、お互いに教えあいながら勉強会をした。当の私は教えてもらってばかりだったけれど。

地方の大学であるから、近場で遊ぶといっても大層なものはない。
ボウリングに行って、カラオケで夜を明かす。
河川敷まで行って線香花火をする。
誰かの家でゲームをしながら、料理をしながら駄弁る。
成人すればそこにお酒が加わった。もちろん居酒屋での飲み会も。

本当にささやかな、等身大の大学生の日常だった。

- - -

月日は否応なしに流れるもので、2年、3年と学年が上がるにつれて一人暮らしにも慣れ、それぞれの生活の形ができた。
タイミングが合えば何人かで飲み会をしてはいたけれど、6人全員が揃って遊ぶような機会はぐっと減った。
最後にフルメンバーで集まったのはいつだっただろうか。思い出せない。
継続的にサークルに参加する者も、とうとう私だけになってしまった。

こうなることは薄々分かってはいた。
分かっていても、寂しかった。

サークルに顔を出しても、そこにいるのはいつも見かける後輩たち。
個人競技であるがゆえに、琢磨し合う同期がいないままモチベーションを保つのは至難の業だった。
大会に出て、試合に負けても、話をしたい相手は目の前にいない。
耐えきれなくて、遠征先のコンビニで買ったモンブランを、さめざめと泣きながら食べたことを覚えている。
勉強も、当然のことながらひとりで淡々と進める。

誰も何も悪くはないのだ。
こんなにも寂しいのは、他にも大事な友達はたくさんいるのに、勝手に彼ら彼女らを特別視し、期待してしまっているからなのだ。

ひとりは苦しいと感じた。あんなにも楽しい日々を送ってしまったから。

- - -

そんな私たちは今年、学部の最高学年となり、その生活もあと半年で幕を下ろす。
大半のメンバーは進路や就職先、方向性が決まってきたようだ。
私のようにあと2年半のあいだ学生をする者、この地方を離れて就職する者。
感染症拡大の影響もあり、飲み会はギリギリできたとしても、卒業旅行は難しいかもしれない。

もう、ひとりが苦しいと思うことは無くなった。

気がつけば、その「ひとりの時間」が、自分を苦しめる問題を解決したように思う。時の流れは偉大だ。

今の私の中にあるのは、時たま会ったときの喜びと、別れ際のわずかな寂しさ、そして、ただただ彼らの幸せを願う気持ちだった。

こんなことを言うと君たちは気味悪がるかもしれない。
なんだかクサいし、ネットの海にこんな文章を流すなと言うかもしれない。

でもこんなこと、面と向かって言えないじゃないか。
だからこそ私は、君たちがこの思いつきで書いた記事を何かの拍子に見つけてくれることをほんの少しだけ期待しつつ、noteという物書きの空間を介して言わせてもらおう。

君たちを誇りに思うよ。
大学生活で出会えて良かった。
仲間として尊敬しているし、心の底から好きだと言える人たちだ。
きっと君たちなら大丈夫だと、いつも思っている。

これを愛でないというなら、何と呼んだらいいのだろうか。
私には、それ以外の言葉は浮かばない。

よろしければサポートお待ちしております◎ 読書や旅行に使わせていただき、より楽しい文章を書けるよう還元したいと思います。