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あれから10年。

たまにfacebookを開くのだけど「10年前の今日」といって、こんな画像が出てきた。

なつかしい!カープがはじめて出場したときのクライマックスシリーズだ!

藤浪との投げ合いは初じゃなかったか。というか「メッセか能見やろ」とおおかたの予想にはんし高卒1年目の藤浪が出てきて、球場はどよめいたっけ(予告先発じゃなかったのだ)。

マエケンの記憶は、2006年のドラフト会議にさかのぼる。当時、最下位こそあおいチームがいて免れたものの、Bクラスの常連で、そこに「あのPL学園の前田を一本釣りできた!」とテンション上がったっけ。「ハンカチ王子」の夏をへて、田中・堂上・大嶺・増渕・坂本なんかでも沸いたあの高校生ドラフトだ。

マエケンはチームの方針で高卒1年目は二軍のローテをまわり、2年目にやっと一軍のマウンドにあがった。わりとはやい段階でマエケンのピッチングを観た。「……投げる球がないですね」と、にがにがしい実況の言葉をよく覚えている。じっさい、直球がはやいわけでもない、ほとんど唯一投げられたカーブも決め球にはほど遠かった。なんとかストライクゾーンに入れて、打ち損じるのを待つ。そんな苦しまぎれのピッチングに見えた。

マエケンがブレイクしたのはごぞんじ、沢村賞をとった4年目。スライダーがキレキレで、とくに右打者は手も足もでず、いかついメイド・イン・アメリカのスラッガーも、マエケンのまえにはくるくるで、「メニー・メニー・メニー・スライダー」と吐き捨てるようなコメントを残すのがやっとだった。

なるほどたしかに、傑出度でいえば、またダルビッシュとの投げ合いのインパクトからしても、この「2010年のマエケンがベスト」という向きもあるだろう。

しかしとにかくマエケンは、カープに在籍した9年において、「エース」でありつづけた。マエケンのおかげで初めてAクラスになれて、クライマックスシリーズにも出場できた。甲子園のはしっこで紅ショウガみたいになりながら、苦手だった今成にセンター前のタイムリーを打たれたのを(二塁手・菊池の転がるようなダイビングとともに)いまも目に焼きつかせて覚えてる。

マエケンの日本最終年。黒田にジョンソンがいて、野手には丸・菊池・誠也と、タレントがそろったあの年。優勝を疑ってなかった。けれどようやく「勝てばクライマックスシリーズ出場」というマウンド、マエケンは7回無失点に抑えるも、後続が打たれて敗退した。ベンチで号泣する大瀬良をなぐさめる姿が、日本でみたさいごのマエケンになった。

それからアメリカに行き、ドジャースで4年、ツインズで4年すごしたマエケンが成功だったか、かたるのは難しい。デビューこそホームランを放つなど鮮烈だったけれど、それから投手のシンダーガードに2打席連発を食らったり、シーズン終盤はリリーフを任されたり、トミージョン手術も受けたし、思ったようなマエケンではなかったかもしれない。それでも、むこうでスプリッターを覚え(マエケンはかたくなに「チェンジアップ」と言い張るけれど)、サイヤング賞の2位に入ったり、WHIPで歴代2位を記録したというのは、「短縮シーズンだから」と枕詞を置いたにしても、評価せざるを得ないだろう。なにより、マエケンのチームは8年間で6度も地区優勝している。ポストシーズン27試合の登板は日本産の選手として最多だという。

広島でもロサンゼルスでもミネアポリスでも世界のどこでも、投げるまえは胸に手を当てるあなたの癖。野球のなかにマエケンがいるんじゃなかった。マエケンのなかに野球があった。マエケンが野球をやめたら、もう野球をみることはないかもしれない。マエケンがスライダーを投げた瞬間、自分のなかですべてがはじまった。雨の日、いやそうに投げて炎上する姿すらいとおしかった。

いささか物議をかもしたマエケンの8年契約がおわった。来年、マエケンがどこの球団にいるのか、たぶんマエケンにすらわからない。でもどこにいても、野球をするかぎり、応援していると思う。マエケンはカーショウだとか、シャーザーだとか、バーランダー、大谷翔平にはなれないかもしれない。けれどたとえばリッチヒルのように、40歳をすぎてもどこかから必要とされる選手であってほしい。そしてもし叶うならば、サイヤング賞と、ワールドシリーズ制覇の称号をむねに、いつか広島のマウンドで観られたらうれしい。

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