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矢面に立つ

私はどういう年の取り方をしてきたのだろうとふと考える。

一人っ子の早生まれ。いつも家族の後ろに隠れているような子どもだった。

面倒なこと、大変なことは大人がまず矢面に立ってくれた。幼い時ほど、学年の中でさらに幼かった。身体が小さいから同級生の妹に間違われたこともある。クラスメイトのさいごからテコテコついていけばよかった。

それが少なくとも家族の中では変わって久しい。いつの間にか家族一の力持ちになり、一番動ける存在として、何もかも頼られるようになった。
今は重いものは私が運ぶ。面倒そうな書類がくると私のところへ。ジャムの蓋が開かない時も私の前に回ってくる。いやそんなものは喜んで開けるよ。熱い鍋の蓋だって平気。工務店のおじさんと工事価格の交渉をしたことだってあるもの。

それでも病院で、医師が家族の病について私の方を向いて話し出した時のことは忘れられない。
隣の本人に言ってくれ、と思う。それは本人の尊厳のためでもあるけれど、どこかまだ後ろに隠れていたい自分がいる。



まごうことなき曇天が拡がり、雨の季節がきた。


グレートーンの風景の中で柘榴の花が咲く。遠くからでもそれとわかるこの花が昔から好きだ。遠くにあれば目を凝らし、近くで見つければ足を止めてしばし佇む。
宵闇の星のような朱色の花。
じきにそれが青い実のかたちになってふくらみ、青が赤くなりそれが濃くなりもうこれ以上濃くはなれないというところで弾け落果する。

この春から初夏のことは、きっと忘れないだろう。季節感がなかったというひともいるけれど、私はそうでもない。
桜が咲いて花水木が揺ればらの頃となり、
躑躅になり山法師になり紫陽花となり梔子となり、泰山木は見逃したまま。



日々は切れ目なく繋がっているから、(ほら、こうして書いている今も)
人生は続き、時は休まず流れる。
長男長女として生まれた両親は、かつて同じような経験をしたのだろうか。ジャムの瓶が回ってこない人もいる?
いつの日かわたしはまた、誰かの後ろに隠れる時がくるのか。


隣家の庭の泰山木に、花がまだ残っていた。
木の高いところにあって見えなかった蕾が、それは大きく開いて白い掌で曇天を支えている。きっと近づけばよい香りがするだろう。
ふっと息を吐く。


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