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そういうこと


ある時ベランダの植木鉢から、知らない草が生えてきて、花をつけた。ピンク色のかわいい花。螺旋を描く姿からすぐに名前は知れた。ねじ花という。

偶然の出会いのようなうれしさ。以来この鉢からは何が芽吹いても手を出さないことに決めた。
小鳥が運ぶのか、冬には小さな赤いシクラメンが炎のような花を閃かせ、夏は謎の熱帯植物が茂り、そして今頃はねじ花がひょいと挨拶してくれる。今年もまたいつのまにか芽を出し、咲いてくれた。


ふとしたきっかけで自分の人生のおわりについて考えた。
子もなく兄弟もない人間は誰が見送るのだろうか。そんなことを考えるなんて、というあなたには伴侶やお子さんやご兄弟が?連れ合いが居ようが子があろうが、ひとは誰も死ぬときは一人、というけれど、そのどれも持たない心許なさは、一度気づいてしまうと消しようがない。あるいは従姉妹の子供とか、そんな人々に迷惑をかけて終わるのだろうか。独り身の友人たちと連絡を取り合っているのは、行きつくところその為なのか。心理的距離が近くても、物理的に遠くに住む彼らや、その反対の彼女らに、何ごとかを頼る日がくるのか。

日々追われる如く家事をして、絵を描いて仕事をして、片づけに呻吟し健康に気づかいながら生きていったその先、たれにねぎらわれることもなくおわるというのは、どうもやり切れない気がする。
ひとに褒められる為に生きているとは思わないが、それでも、よく頑張りました、ご苦労さん、と誰かに言われたい。私のけちな根性は報いを求める。

いや、おひとり様の時代だから、世にはその問題を解決する商売や仕組みが既にあまたあるだろう。ただそれでは、自分が二親を見送るのと同じように送ってはもらえない。今から覚悟しておけば大丈夫か。なんにせよ、受け入れるしかない。自分の選択の結果なのだから。


ざくろの花はもう実のかたちになった。四十雀が雨上がりによく囀る。足下のかわいいねじ花。そうかそうか。そういうことか。生きることに見返りなど求めても、仕方ない。
ざくろの実一つ、捩花一本。わたしもまた、循環する生きものの一つでしかない。なるようになって消えていけばいいのだと覚る。
日の長さを感じながら、空を眺めて歩く。



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