八月の審判(エッセイ)
夏の夜空に花火があがる。大小のスポンサーの名が花火の名とともに賑々しく拡声器で伝えられ、菊が牡丹が柳が龍がヒュルヒュルと笛までついて打ち上げられ、中空で大きな音を立てて花を開く。轟音は水に拡がり山をゆるがす。浴衣がけの、ポロシャツの、海水着のままの人の波に浜辺は埋めつくされ、海に面した家々の二階や縁先では客を迎えて景気よくビールの栓が抜かれる。十五年目の原爆記念日の夜である。妻は子供達と花火の写生をしている。僕は打ち上げられた花火の煙が、きのこのように、くらげのように、にぎりこぶしのように、あるいは幽霊のように、東から西へ、拡がっては溶けてゆく姿を眺めている。世の中は僕の小学生の頃のような、いやそれ以上の平和な姿に帰ったようだけれど、僕の心はいつまでたっても慰まない。花火の音を聞けば銃砲声を思い、その煙を見れば戦場を思うという、この古めかしい不幸な気分はいったい何時の間に培われてしまったのだろう。人並に花火に美しささえ楽しめないというふさぎの虫はいつから僕に巣喰いはじめたのだろう。こんな陰気な性格ではなかったのに、いつもこんなでもないのに。僕は夏が好きだ。ギラギラ照りつける太陽が好きだ。汗ばんだ人々の顔が好きだ。家々の壁板が柱が天井がまだ生きている木の香りを漂わせる夏が好きだ。だのにこんな暗い気持が起りがちなのもきまって夏だ。八月が僕をいら立たせるのだ。八月が審判にやって来る。
僕は昭和18年の冬学徒臨時徴収で南の島に追いやられた。たくさんの学友たちが死んだ。海は一瞬にして三千人の兵を船もろとも呑んだ。強制使役が死ななくてすむ人々を次々と殺した。三百人が三十人になることはそう手間のかかることではなかった。「死にとうナカ」「茶碗で米のメシが喰いたい」「帰りたい、帰りたい、日本へ帰りたい」そういいながらジャングルの中で兵士たちは死んだ。沖縄出身の兵士は故郷の悲報にあるいは発狂しあるいは逃亡し、見つけられては銃殺された。命令を受けた戦友の手で・・・・・・。連日の無差別爆撃と銃剣の下でついに斬込部隊が編成され、トカゲの鳴き声を空っぽの腹の底から出さなければならなかった。戦友の遺骸を焼くのも片腕から片肱に、はては手首から指一本にかわっていった。煙が上がるときまって翌朝爆撃を受けるならわしだったから、火を焚くのは夕もやから朝もやにかけてつまりもやに偽装されたあがり方でなければならなかった。野戦病院に戦友の遺骸を受け取りに行けば軍医はメスで無造作に友の手首からさきを切り取り、セロファンにつつんで、それを彼の飯ごうにぶちこんで黙って渡してくれた。まだある。まだまだある。数え切れぬほどいまわしい思い出は残る。
しかしとにかく僕は帰ってきた。ニューギニアの果てから。生き残って。かすり傷一つしないで。元気に、少なくとも元気に、もう殺されることのないことを信じて、生き長らえて帰ってきた。
僕の眼を射たものはすばらしい日本の野山の美しさだった。すがすがしい緑だった。さわやかな水の色だった。帰っていく家もない僕はこの野山の美しさのある限り残されたいのちを詩人に賭けようと思った。奪われた幾多の夢を取り戻すために。永遠に青春を生きるために。僕自身何よりも先ず人間であり日本人であるあかしをするために。
名ばかりの故郷に引き揚げた両親の許に帰って僕は知った。日本に残っていた学友たちは僕を死んだものと思い「礒永の死を無駄にするな」と誓い合ってくれていたという。「俺たちはもう騙されぬ。この投げ与えられた自由はたくさんだ。自由は俺たちの手でかちとるんだ」友人は復員したての僕をそういって手紙で励ましてくれた。その友ももういない。しかし僕は生き残っている。臆面もなく生き残っている。亡くなった友人たちの言葉に取り巻かれ、八月に鞭打たれながら。ヒロシマの光を見たという妻とともに。元気な二人の男の子とともに。母とともに。
長周新聞(1960年8月10日)
礒永秀雄の世界(2000年*長周新聞社)
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