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仁 川  礒永秀雄 誕生の地

光市室積湾にむかって立っている礒永秀雄の詩碑。その海側の面には「1921年仁川に生まれた礒永秀雄は----」と書かれてあります。「仁川」とはどこなのでしょうか。「仁川」は現在の日本ではなく、朝鮮半島の西側の中央に位置する韓国を代表する港湾都市のこと。礒永秀雄の生まれた1921年当時の仁川は、日本に併合されていた場所だったのです。現在は仁川(インチョン)と呼んでいますが、当時の日本人はジンセンと呼んでいました。

日本に併合されてなかった頃、今から130年ほど前の1894年〜1895年。朝鮮の領土をめぐって日清戦争がありました、勝利した日本は、朝鮮への企業の進出が認められ、日本が朝鮮半島へ進出する本格的な足がかりになりました。
1895年。日清戦争後の下関条約が施行された直後。礒永秀雄の父・高輔は出身地の室積の仲間達と仁川にわたります。高輔が16歳の時のことでした。
大志を抱き、朝鮮での成功を夢見た高輔は、新天地仁川で洋服の縫製技術を身につけ洋服屋として独立。
日清戦争後の仁川の街は日本の資本によって鉄道や道路、港が美しく整備されながら発展を続け、洋服屋は大成功しました。
1902年 、成功した高輔(23歳)は長崎出身の商家の娘ルイ(18歳)と共に室積の礒永家の養子となり結婚します。
結婚の翌年、日露戦争が勃発。高輔は戦地に出兵しロシア軍と激しく戦いました。一方性格の優しいルイは、傷を負ったロシア兵を自宅で保護し看護したといいます。
日露戦争後、日本の製糸業は世界最大の輸出国になり、洋服屋はますます繁盛していきました。

仁川港の人々

朝鮮はその後1910年8月から太平洋戦争の終結する1945年8月まで、日本に併合されます。日韓が併合された11年後の1921年1月17日。父高輔(41歳)、母ルイ(38歳)は一人息子を授かりますが、それが礒永秀雄です。
 礒永秀雄は生まれた時から大変賢く、礼儀正しく、幼い時は神童といわれたそうです。

父高輔の故郷室積は伊藤博文や松岡洋右などが生まれ育った場所。
高輔はこの優秀な息子を、故郷の偉人である伊藤博文や松岡洋右の様な政治の桧舞台での立役者になってもらいたいと考え勉強ばかりさせていました。
仁川は朝鮮屈指の港町。街の中心にある小高い丘を上れば公園があり、丘の上からは仁川の街の全景、そして広い海が見わたせました。異国から港に入ってくる数多くの船の姿は、秀雄少年の心にしっかり刻みこまれていたことでしょう。

小学5年の頃に仁川の丘に立つ二階建ての洋館に引っ越しました。50歳を迎えた父高輔の隠居生活と、病弱な母ルイの保養所になればと思い買った別荘です。当時の仁川の公共施設のほとんどは立派な洋館でした。
西洋風の建物はさまざまな夢を育んでくれたことでしょう。仁川の街には日本人の住むところ、現地の朝鮮人の住むところ、チャイナタウン、他の外国人が住むエリアなどがあって、そういった人達の会話を聞く機会もありました。

仁川の街 丘の上からの俯瞰

礒永秀雄が残したいくつかの小説の中に、当時の仁川の風景や人物などが登場します。仁川は幼年期、少年期、青年期にいたるまで、秀雄の体と心を育てた故郷です。作品で「ふるさと」という時、それは戦後引き上げて暮らしはじめた室積だけでなく仁川のことも大きく含まれていると思います。日本の敗戦は、朝鮮の人々にとっては日本併合からの解放を意味します。しかしながらそこで生まれ育った日本人にとって日本の敗戦は、故郷の喪失を意味します。植民地で育った人々はそれぞれ、かくも複雑な内面を抱えて生きていくことになるのです。

なお2001年に開港した仁川国際空港はアジア最大のハブ空港の一つとなっていて、韓国と異国を結ぶ空の玄関になっています。仁川から北西およそ36㎞の江華島は世界遺産にもなっている支石墓(ドルメン)があります。礒永秀雄のいくつかの作品の中にもドルメンというワードが登場します。

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