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赤道直下の島 ハルマヘラ島で (1)

1944年。日本軍の南方での戦況は悪化の一途を辿っていました。 

1944年、2月6日 クェゼリン島の日本軍玉砕。
1944年、2月17日 トラック島空襲。日本軍大敗。
1944年、2月22日 エニウェトク環礁の日本軍玉砕。
1944年、2月29日 米軍、アドミラルティ諸島上陸。日本軍玉砕。
1944年、3月1日 米軍、ラバウル占拠。
1944年、6月15日 米軍、サイパン上陸。7月7日 日本軍玉砕。
1944年、6月19日 マリアナ沖海戦 。西太平洋の制海権と制空権を喪失。1944年、7月2日 米軍、ニューギニア沖、ヌンホル島上陸。
1944年、7月21日 米軍、グアム島上陸。8月11日 日本軍玉砕。
アメリカは強大な経済力・工業力に物をいわせ日本軍の占拠していた島々を次々と玉砕に追いこむ。

7月には遂にサイパンが陥落し、その後マリアナ基地が建設されるなど、日本空襲の準備が着々と進んでいきます。

礒永秀雄は1944年(昭和19年)5月、フィリピン・セブ島で船舶工兵20連隊へ転属、第3中隊に編入し、6月30日、ニューギニアの最西端、ソロンに向けてセブ島を出発しました。
しかしその頃、連合軍はニューギニア北部に上陸し、飛び石作戦で日本軍を駆逐しながら西進を続けていました。そのため連合軍のいるソロンにはとても近づける状況ではなく、目的地をニューギニア手前のハルマヘラ島に変更し、7月5日、ハルマヘラ島ヘヤオールに上陸。2ヶ月前の5月からハルマヘラ島に駐屯している第32師団(通称・楓師団)の指揮下に入ることになりました。ハルマヘラ島は赤道直下にある四国より少し小さい島で、アルファベットのKのような形をしています。島全体が熱帯雨林に覆われていて平坦な土地はあまり多くありません。
9月になると連合軍がハルマヘラ島北部に浮かぶモロタイ島に上陸し、島を占領します。モロタイ島には建設途中の日本軍の飛行場がありました。日本軍が1年以上作業をしても完成しなかった飛行場でしたが、連合軍は圧倒的な機械力を駆使して、たった2日で鉄板を敷き詰めた強固な航空基地を作り上げました。モロタイ島はハルマヘラ島の入江の入り口にある島なので日本軍の船も監視できます。

ハルマヘラ島 グルワとカタナ峡谷の位置

それ以降ハルマヘラ島では連日の様に日本軍に向けた銃撃が繰り返されることになります。中隊では接近戦に備えた斬込隊のゲリラ特訓が行われ、トカゲの鳴き声の訓練まで行われました。中隊の拠点は、海沿いのグルワという場所から10kmほど南に入ったカタナと呼ばれる峡谷にありましたが、モロタイ島を連合軍が占拠した時を境に中隊の拠点は海沿いのグルワへと移されることになりました。現地人が使っていた小径、山路、ぬかるみをわたりながらの移動です。グルワの海岸から連合軍が占拠しているモロタイ島までは約100km。移動した中隊は、海沿いのヤシの茂みなどに穴を掘って兵器・弾薬・食糧などを隠し、敵の動きを監視します。
一方カタナの峡谷にあった中隊長の宿舎は兵器の倉庫として使われる様になり、礒永秀雄は同僚2人でカタナに残って、中隊で使う兵器の監視役をするよう命じられます。
グルワからカタナまでは幅10m程の川で繋がっていました。月に3〜4回、連絡員が丸木舟で行き来して、倉庫の兵器を補充したり、必要な弾薬を持ち帰ります。

連合軍の航空機は決まって毎朝早朝に来襲し銃撃して行きました。煙の出る炊飯作業は人の気配を感じさせない様、いつも夜明け前の朝靄の中で行われました。そんなある日、いつもの様に戦闘機が銃撃に来ました。その時の弾が運悪く海岸に隠していたガソリンや弾薬に命中。次々と周辺のガソリンや弾薬が誘発。一瞬にして中隊の兵器・弾薬・食糧の多くが失われました。食糧は、月はじめに1日150グラム。月4キロ半の米が前渡しされて支給されて、足りない分は現地で食糧を調達する暮らしへと変わり、数ヶ月後には完全に補給が断たれました。
とにかく食糧がありません。グルワに移動した中隊はすでに持久戦を見越して農耕を始め、ヤシの生えている茂みの中の平坦な土地で自給自足の体制を整え、芋やタピオカなどを栽培していましたが、カタナの峡谷には耕地に適した土地はなく、農耕など思いもよらないことでした。
痩せ細った体に鞭打ちながら毎日食糧を探してジャングルの中を歩き回る日々。しかし山奥の密林をいくら探しても口にできる食糧など簡単には見つかりません。青いパパイヤの実が収穫としては大きい方で、あとはカンコンという水草やズイキ芋の茎、ワラビやゼンマイの類。植物は遠くまで出かけてもわずかな収穫しか無いので、暇さえあれば、宿舎付近の小さな入り江で魚を釣ったり、干潮時の川へ入ってニナを取ったりして空腹をわずかに満たすばかりでした。

射撃が得意だった礒永は飢えを凌ぐため殺生を始めます、2羽のオウムを見つけ1羽を銃で仕留め、それをおとりにしてもう1羽を仕留めようとするのですがなかなか近付きません。その夜、宿舎の屋根や木々にぶつかりながら仲間を探し回るオウムの姿がありました。障害物にぶつかりながら連れを探して飛び回るオウムの姿があまりにも壮絶でやり切れず...。それ以降、礒永が銃で鳥を殺生することはありませんでした。
植物から虫にいたるまでとにかく手当たりしだいに採っては食べ、下痢をすれば止す。黄色火薬は羊羹に似ているので、それまで食べる同僚もいましたが激しい腹痛を起こしたのは言うまでもありません。それは餓鬼の世界でした。
その間も連合軍の機銃掃射や爆撃は無差別に行われ、現地物資の採取はそれを覚悟の上で行わなければなりませんでした。
火は竹を使って起こしていました。煙を出すと決まってグラマン機が銃撃に飛んで来るので火を起こすのは霧の多い夜明け前です。
着替えはなく洗濯する時間が惜しいのでいつも半裸の状態。靴は決戦の時に備えて履きませんでした...。


火を作ったことがある 火が消えてマッチもなかったから
竹と竹とをこすりあわせて
煙草の火殻ほどの火種を作ったことがある
南の小さな小さな島で
裸で はだしで暮らしていた頃
塩を作ったことがある 塩を求め 塩にあえぎ
泥水をわかし 虫を食べ
人を埋め 人を焼いたことがある いくさのさなか
遺書を書く紙もないから
足も立たなくなってしまったから
木の幹にいざり寄って
たった一つの文字を彫りつけたことがある
最初のそして最後のその文字は〝L〟
Life の 〝L〟 Loveの 〝L〟    
Lightの 〝L〟 Libertyの 〝L〟
Lackの 〝L〟 Loneの 〝L〟
Labourの Loadの
Limitの Leastの そしてLastの〝L〟
奪われた抒情の あこがれの 湖の
また文学の 学問の 国土の〝L〟
Oh my lord !
縦に切り込んだ垂直の線
横にかき切ってゆく水平の線
深くえぐって彫みつけた最後のとどめ
AでもなくEでもなくOでもない
たった一つの文字〝L〟
胸の中をかきむしる爪
 L L L
L L L L
 L L L L
L L L
 L L
渦巻きひしめきぶっつかり合い
すさまじい速さで回転しはじめるLの群団
その星雲
Lこそわたしの火種
わたしの内部を切り崩しつづける鳶口
胸に灼きつけられた緋文字
日々の 断頭台の上で
わたしははばからず胸をはだけて訴えよう
一つの文字〝L〟 その
もえつづける 業火は
たとい殺されても消えぬ と 

1966年。復員後20年目に、ハルマヘラ島で身体と心に刻まれた体験、そこから搾り出された自らの生きる意味を、『門』という詩作品に託しています。

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