マガジンのカバー画像

礒永秀雄の歩んだ道

9
礒永秀雄の歩んだ道について、記事をまとめていきます。
運営しているクリエイター

記事一覧

南の島から 生きて日本へ帰る

1945年8月9日。長崎に原爆が投下されました。長崎は礒永秀雄の母ルイの故郷です。 1945年8月14…

赤道直下の島 ハルマヘラ島で (2)

ハルマヘラ島では1944年8月を過ぎた頃から米軍の航空機による銃撃が激しさを増していました。…

赤道直下の島 ハルマヘラ島で (1)

1944年。日本軍の南方での戦況は悪化の一途を辿っていました。 1944年、2月6日 クェゼリン島…

宇品から 南の島へ

1943年(昭和18年)11月末。仁川の両親たちと別れた秀雄は、戦地に向かう輸送船の待つ広島県宇…

仁川から 出征へ

1943年(昭和18年)10月21日、明治神宮外苑競技場の「出陣学徒壮行会」を終えた学生たちは、各…

東京帝国大学入学 そして 学徒出陣

1942年(昭和17年)4月。礒永秀雄は東京帝国大学に入学します。下宿先は大学正門のすぐ向かい…

旧制姫路高校のころ

昭和14年4月4日。礒永秀雄は旧制姫路高校に入学します。 支那事変が行き詰まり、国家総動員法が制定された翌年のことです。 戦時色が徐々に強まってきた時代で、高校への入学にあたっては色々な新機軸が実施されました。 新入生は、姫路市内に自宅がある者も含め、新入生全員が入寮生活をすることになります。 制服は新調せず、中学時代のものを使うことが定められ、制服が黒以外の場合は学校の方で黒く染めるよう計らいました。 疲弊した服や破れた帽子が高校生のシンボルで、白線帽に憧れていた新入生に

京城中学のころ

1933(昭和8)年3月、仁川の尋常小学校を卒業した礒永秀雄は、京城中学に入学します。京城=現…

仁 川  礒永秀雄 誕生の地

光市室積湾にむかって立っている礒永秀雄の詩碑。その海側の面には「1921年仁川に生まれた礒永…