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自分とは何か ⅲ


1時間ほどが経過し、漸く扉の前に立つことが許された僕は、鍵を差し込み手首を捻る。するとそれまでせき止められていた大量の情報が流れ出した。それらが食べ物だとしたら、僕はバイキングで燥ぐ子供のようだった。夢中で貪り、中枢が破壊され、胃袋の容量が大きくなる。欲求が満たされる悦びが駆け巡り、色彩として顕現する。普段考えもしなかったこと。考えても答えが出ずに放置していたこと。扉の名は常識だった。

その後消化を待ちながら、友人を傍らに朝方まで食レポに明け暮れ、終いには声帯がちぎれ、声が出なくなった。言いたいことが山ほどあるのに、物理的に声にならない。2日後にあまり馴染めていないサークルのライブでトリを任されていたが、そんなこと出来る筈もないし、そんなことしてる場合じゃなかった。塾講師のバイトも同様に、胃に穴が空いたので暫く入院すると嘘をついて2週間部屋に籠った。開けてしまった扉が迷宮の入口だとはつゆ知らず、ワクワクして過ごした。新しいレゴを買って貰えたら、一度は説明書通りに作ってみるものの、すぐに壊し、新しいパーツが手に入った悦びを噛み締めてオリジナルを作ろうとするような子供だった。それと同じ類のワクワク。

神、科学、文明、倫理、経済、戦争、公正、多様性、芸術、理想、現実、過去、現在、未来、

自分

それで僕に残されたのは、自分は何も分かってなどいなかったのだという確かな実感だった。自分を叱責した教師。両親。バイト先の社員。自分は子供だから分からないが、大人が言うならそうなんだろう。と、駄々を捏ねる同級生を横目に、感情に蓋をして誰よりも利口にしていた青い日々が、急に滑稽に思えてならない。それまで盲信していた価値観は、偶然自分の周囲にいるだけの他者に植え付けられた受動的なものだったのだと気付き、真っ先に母親を憎んでしまった。べき思考に埋もれて言語化できなかった、本当は悲しかった、無数の“あの時”がフラッシュバックした。

本当は誰もが何も分かっていない。正義の反対は悪ではなく別の正義で、誰もが自分が正しいと信じる為に相反するものを否定する。そして、その正義が何故それなのか疑わない。疑う必要が無いから。自分が正しいと思えなければ何かを守ることはできないし、それさえできれば幸福なのだ。おめでたい頭だ。この世界は腐っている。恥ずかしいことに、それまであまり不自由のない人生を送っていたからか、イマイチ共感できずにいた。いや、違和感は覚えていた。だから“あの時”を思い出す。全力で戦っていたつもりが、全力で逃げていたのだ。

そして不可逆的に、相反する他者が多い人間ほど否定される機会に見舞われる。僕は他者に迎合する芝居を打つことでそれから逃げてきた。そのツケが回ってきたということだ。自分とは何か。どうすればそれを知り得るのか。今では肯定し合える数少ない他者と築く関係を拠り所にしたり、時には人と関わることを辞め、理解されづらい趣味や個人的な表現に心を救われたりしている。

詰まるところ僕の夢は、自分にしかできない方法で何かを提起し、誰かに何かしら感じてもらうこと、その価値があるものだと認められること、そこから連続するコミュニティを守りながら拡大させることだ。

僕は、自分のマイノリティーである部分に強い自己愛を感じている。それらが悩みの種だというのに、どうしても自分にしか送れない人生が欲しいし、代えの効かない存在でありたい。画一的な価値観は必ず優劣を決定するが、オンリーワンであれば、自動的にナンバーワンだ。そうなれば他者を羨んだり、病的に蔑むこともしなくて済む。昔から勝敗という概念を強いられるのが気に入らない。誰もが自分に価値を感じられればいいと思う。

自分にしかできない表現を確立させ、その素直な感情や価値観に共感できる誰かに認められたい。その誰かは、自ずと真に僕がどういう人間か知っていて、対話をする前から既に分かり合えることが殆ど決まっている。こんなにも純度の高い愛で繋がる関係があるだろうか。そしてその誰か、代替不可能な性質を持つ人間が、民主主義や資本主義経済に無下にされる世界は哀しみに満ちている。無機質な管理社会の中で孤独を感じる人間が、確かな開放感を伴って自己表現できるコミュニティを守ることができればこの上ない。それは戦績だ。誰にも謙ることなく、気高く、魂を剥き出しにして命を削ることでしか得られない価値だ。


僕は今、バンドで詞を書き、曲を作り、歌っている。どうしてその言葉を綴るのか、どうしてそれをそのメロディに乗せるのか、どうしてその服を着るのか。誰かの表現に幾度となく涙を流し、身体が焼き切れるほどの熱に魘され、どのようにして答えを知るに至るのか。


自分とは何か。

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