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自分とは何か ⅷ


どうしても興味の湧かないバスケットボール、優越感と劣等感が交錯する歪なコミュニティ、理不尽な怒号に萎縮する自分、言われのない濡れ衣を着せられ、結果的に誰よりもチームに迷惑をかけている自分、それを誰にも相談しない自分、辞めることは逃げだと疑わない自分、それに勘づいて手を差し伸べることをしてくれない、自分以外の全て―


受験勉強が楽しかった。それまで塾では、部活の悩みに苛まれるか、ウトウトするばかりだった。引退する頃には劣等生になっていたが、ずっと音楽を聴いていられたし、何より地獄から生還した自分を療養する生活に、いつぶりかの安堵感を覚えていた。自ずと未来を見据える生活の中で、僕はやはり何かを作ったり、歌ったりしてみたかった。

受験が終わると、歌い手に挑戦した。丁度いいスモールスタートだと思ったが、半年と持たず辞めてしまった。“歌うこと”と“歌を聴いてもらうこと”は、想像以上に違っていて退屈だったし、曲を選り好みしていると案外あっさりネタ切れしてしまった。また、同時期にYouTubeも始めた。中学の同級生とアイデアを出し合い、企画、撮影、編集と、無名なりに趣向を凝らした。1年で70本ほど出したが、飽きて辞めた。仲間と色々な場所に行った。警察を呼ばれたりしたのも含めて、思い出が沢山ある。

上手く欲求を満たせないことに苛立っていた頃、機会を求めて軽音部に入部した。今使っているエレキギターはこのタイミングに買った物で、初心者にとって十分すぎるスペックだったが、躊躇いなく有り金を叩いた。何でも、曲を作って大会に出られるらしかった。音楽で・オリジナルを作り・ステージの真ん中で・歌える。これは僕の夢だ。漸くツキが巡ってきたんだ。と胸が高鳴った。そうして結成したのが、今活動しているバンドの前身だ。

さて、どんな曲が作りたいのか、どんな曲を作るべきなのか。初めての作業に戸惑うかと思っていたが、早くもリードギターがデモを送ってくれた。GarageBandで打ち込まれたペラペラのギターサウンドに感動した。これに歌を乗せてほしいとのことだったが、無計画な鼻歌ではしっくり来なかった。メロディはトラックのテンポ、リズム、コード進行、展開など、全ての特性にミートしている必要がある。それらに関して共通点が多い、RADWIMPSのドリーマーズ・ハイを参考にした。こうやって作るのか。

それからは、メンバー各々の楽器に対するネグレクトと、当然の技術不足を誤魔化しながら場数を踏んだ。結成から半年後、上位7組が全国大会決勝の舞台に立てる、とされた県大会で8位入賞という、口惜しいが悪くない結果を納め、充実感に満たされていた。

ペンを握る同級生に目もくれず、その後も横向きのiPhoneを睨みつけては、慣れないスタジオレコーディングを繰り返した。YouTube活動で身についたチンケな動画編集技術は、ハンドメイド感満載の青春MVの制作に活かされた。最終的に何とか形になった6曲を、事務室のデュプリケーターでCDに焼き入れ、たまたま印刷業を営んでいた友達の父親に業務用プリンタを使わせてほしいと談判し、ジャケットや歌詞カードをカラーコピーしてもらった。それらをいちいちカッターで切り、いちいち封入した。受注生産で1枚500円。校内外合わせて250枚ほど手売りした。

予想だにしない反響を貰えたのは、文化祭のテーマソングを担当したからだった。コロナ禍、強行に近い形で開催する文化祭のライブでは、密集や声出しが禁止となった。前年までのテーマソングはハイテンポで、拳を上げて盛り上がるような曲が多かったが、そうもいかない。運営委員の会議でそれを知った僕は、不安な心情の受け皿となるような感傷的なアンセムのサビを、リフレインで敢えてシンガロングにしたら切なくて素敵だと思った。そんなアイデアで作った曲をYouTubeに投稿し、EPのアウトロとして挿入した。


バンドは後夜祭の最後に出演した。例年の開催は6月だったが、コロナ禍で延期となったこの年は9月の暮れで、太陽はいつの間にか見えなくなっていた。少し冷たい風を胸いっぱいに吸い込み、歌った。

曲を作った自分。詞を書いた自分。それを、いつか憧れていた誰かのように、ステージの中央、大勢の視線を集めて歌う自分。1年と数ヶ月前に入部を決めた自分。歌うことも作ることも諦め切れなかった自分。この高校を目指して勉強した自分。ピアノを辞めなかった自分。それらの選択と、その結果である今、この瞬間に至らしめた、自分以外の全て―


ふと手元に視線を落とし、次に見上げた時には、幾千の星が瞬いていた。声にならない声が僕らを照らしていた。僕は感情の渦に呑み込まれ、嗚咽で縒れる声を必死に補正しようとしたが、遂に落ちサビでマイクを離れてしまった。自滅だ。そこは皆が一番歌いたくなって感極まるパートだって、自分でそう言ったんだ。

その何分か後に通り雨が降り始めた。少しタイムテーブルが押していたら中断だったのだから、ステージは奇跡としか言いようがない。

バンドで創作活動をするようになってからは、夢を叶える日々だった。夢中になって曲を作っていたが、僕らは何を理想としていたのか。



僕らを繋いだバンドがいた。


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