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あのときのK君と、どんな話ができるだろう

2017年の夏、京丹後の保養キャンプ「ふくしま・こどもキャンプ」に参加した2,3日の時間はとても濃く、当時高校生の男の子が撮った写真を、今でもまじまじと見てしまう。

保養キャンプとは、東日本大震災後の東京電力福島第一原発事故後、福島をはじめとする東日本の子どもたちを、一定期間放射能汚染から離れた場所で保養する取り組み。子どもは身体の機能が発展していない分、体内から放射性物質が排出されるのも早い。そのため「保養」は有効として、全国各地で取り組みが続けられてきた。

保養キャンプには様々な参加スタイルがあり、親子で東日本から参加するキャンプがほとんどだと思うが、京丹後の保養キャンプは福島県いわき市の児童養護施設の子どもたちを毎年招いて、存分に自然の中で遊び、地元のものをたくさん食べて、真っ黒になって帰ってゆく。

はじめて参加したとき衝撃だったのは、子どもたちの大人慣れしている様子。施設生活では大人と触れる機会は、わたしが同年代だった頃とは比にならないほど多い。それでも、よそよそしい初日から一週間後の福島に帰るころには、肌を真っ黒にして、子どもらしい笑顔で走り回っている。間違いなく「施設の子」フィルターがかかっていると自分でもわかるけど、どうしてもその姿、また同行の施設職員さんからそんな話を聞くと、目頭が熱くなる。

ある時、地元のおっちゃんと、参加してくれた男子高校生と一緒に釣れない釣りに行った帰りに、海を撮影していたわたしの手から彼がフィルムカメラを取り上げた。

使い捨てのフィルムカメラを「これどうやって使うの」とキラキラした目で問いかけてくる。説明したら、くるっと海に身体を向きなおし、おずおずと1枚だけ撮った。その背中は、明らかに色白の肌が赤く焼けていて、この数日間でどれだけ外遊びしたのかと思うほどだった。

わたしにカメラを手渡しながら「ここ海抜、大丈夫?全然海抜ないじゃん」と言ってきた。彼の話を深く聞いてはないけど、南相馬にわたしがボランティアに行っていたことを話したら、前のめりで南相馬出身だと底抜けの明るさで言ってくれた。津波は、経験したのだろうか。親御さんは、震災後に離れてしまったのだろうか。

聞きたくても聞けなかった。というより、そんな個人的なことを聞いたところで、彼には何のプラスにもならないと感じた。自己満足に彼を利用したくないと思った。

でも、今は聞きたいことが山ほどある。震災のとき、どうしてた?津波は見た?こわい、つらい、悲しい気持ち、だれか隣にいた?原発事故の影響はどうだった?高校卒業したら施設も卒業って聞いたけど、ちゃんと生活できてる?施設の職員さん、泣きながら心配してたよ。

彼の撮った写真は、わたしの海の写真と違って、歩いていた場所と海面の近さが感じとれる写真だった。震災伝承に携わるようになって、今だったら彼とどんな話をするだろう。自分が少しでも進歩できていたらいいなと思うけど、そう言えるまでは多分足元にも及ばない。わたしにとっての進歩の意味はまだ整理できていないけど、当事者の経験したこと・置かれている環境への近さが変わったように思う。

K君、元気かな。お話したいなあ。

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